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平安朝の院政期の上皇からみる日本史

2021-05-15 09:20:51 | 日本史古代史講座

日本古代史について論じます。

日本の古代史の華は平安朝でしょうか。

すなわち平安時代です。

院政期を中世に入れる歴史学者もいますが敢えて古代に入れます。

便宜上です。

では院政期のお話を致しましょう。

院政期は摂関家たる藤原氏に対する天皇家の復権でした。

当時の天皇陛下は大内裏でひっそりと暮らしています。

当然、天皇陛下と雖も当時の法律の律令の適用は免れません。

なので天皇陛下も法の制限のもとに遭ったのです。

藤原氏や公卿は基本的に時の帝が邪魔になる毒を盛った形跡があります。

天皇陛下としてはたまったものではありません。

しかし位を退いた上皇に対してはなにも律令の縛りはありませんでした。

なので今度は藤原摂関家に対して復讐行為ができました。

院政といえば白河、鳥羽、後白河、が平安時代の代表的な上皇、法皇だと伺います。

後鳥羽上皇が入る場合もありますがご容赦願います。

尤も現在は白河上皇の父の後三条天皇を入れるようですが。

だから法律的に縛りのなくなった上皇はやりたい放題的な行為ができたのです。

抑えていただきたいのは上皇も法皇も天皇陛下です。

平安期には天皇が何人もいたと想像してください。

では上皇が何人もいたらどう呼んだのかは、実権を握っている上皇を本院と呼びました。

いわゆる治天の君と呼ばれる上皇です。

あとは一院、二院と数えています。

日本で一番強い命令は天皇の勅令でしょう。

その勅令を上回るのは院宣です。

上皇や法皇の命令なのでもう最強です。

この院宣で朝敵すなわちテロリストと決めつけられればもう最後です。

尊王思想の厚い日本では絶対に逆らえませんでした。

院宣や勅令以上の命令があったとすれば戦後マッカーサーが出したポツダム勅令でしょう。

ここで歴史的評価をすると天皇陛下が自ら政治を行う新政よりも院政の方が都合よくできています。

院政期の上皇は藤原氏に対して巻き返しを図っていたのでしょう。

摂関家の藤原道長のようにナンバー2から望月の歌を詠まれてはたまったものではありません。

しかし親政では限界があったのか位を退いて上皇になって思い通りの政治ができたと伺います。

摂関家はさぞこまったでしょうね。

立場が逆転したので。

しかしせっかく政権を奪還した天皇家も武士には負ける結果になります。

自前の軍隊を持たなかったからです。

明らかに武士に頼り過ぎました。

どうでしょうか。

歴史は過去のことを分析して未来に役立てる未来学です。

興味がありましたらご参考にしてください。

意外と自分がやっていることがダブって見えるかもしれませんので。

役立てる歴史を実現させたいと考えております!

 


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