好きに生きていい③
エゴは中学高校大学 会社昇給昇進地役職
そういったものをどんどんどんどん提示しつづけます。
社会の中から重要だと思われていることを重視して
あるべき姿っていうのを常に提示し続けます。
あるべき姿を提示するってどういうことかって言ったら
あるがままの姿を否定するということですよね
今この瞬間はあるがままですそこにあるべき姿っていうのが提示されれば
間接的にあるべき姿とあるがままの間にギャップができますから
あるがままの姿が否定されたってことになる
だからあるがままが否定されているので当然過去全ても否定ですよ
なぜなら今のあるがままに導いてきたのは過去なんだから
あるがままが否定されたということは過去全てが否定された
その教育で自信を持てと言われてもそれは不可能に近いわけですよ
いいいい中学校に入りましたとね頑張って勉強しました 。
いい中学校に入ったすぐにいい高校が提示されます
あるがままのあなたじゃダメなんだとあるべき姿は
こっちだよとで頑張って勉強して高校に入りました
そしたら 大学が提示されるわけです。
あるべき姿はこっちだよと
それはもう間接的にあるがままの否定なわけです
大学でまた今度はいい会社
いい会社に入れたら貴方は素晴らしい
しかしいい会社に入れなかったらあなたは素晴らしくないと
権力的にずっと続いていくわけです。
いつもどの瞬間もあるがままを肯定してはくれないわけです
常にあるべき姿を提示し続ける。
それは 相手のためでもなんでもない
相手のためでもなんでもなく 言う側のエゴなんです
自分に対してあるべき姿を提示できるって言うのは
どこか上から目線なのですよ
私はもっと上のものをあなたに提示します
そしてあるべき姿を否定して
間接的に自分自身のエゴというのを守っている わけです。
親は常に子供よりも上なんだよと
そして親の権威親のエゴという牽引を守っているわけです。
だから 教えるって言うことをするわけです
こっちがいいよとこうした方がいいよと
学校の先生も一緒です本当は子供のためにも何でもないんですよ
あるべき姿を提示するっていうのはね
ただ単に自分のほうがものを知っていると
自分は正しい答えを知っていて
あなたは知らないから私が教えてあげるっていう方です
ただそれだけなんですん
それはね本人たちも悪気はないのです
意識的には悪気はないのです
ただ先祖代々ずっとそういうことが続いてきて
いるというだけなのですね 淡々と淡々と
その自分の親も自分を担当してくれた
学校の先生もまたその親その先生からそういう
ふうに教育されてきたわけです
好きに生きていいなんて言われたことがないだから
当然相手にも言えない自分自身も好きに生きていないわけです
でもそれはエゴが不安と恐怖によって作られた社会においてのものです
本当の姿ではないのですね
本当は 私たちにはやるべき義務っていうのはない
行ったほうがいい事っていうこともないんですよ
やるべきとかね行ったほうがいいとかっていうことはないのです
もしそれをやろうとしても結果的にはあまりうまくいかない
私たちがやった方がいい事っていうのは
やりたいことをやったときに一番うまくいくんです
やりたいからやるって
何でやってるんですからやりたいからやるそれだけなんですよ 。
でもとんどの方が高この話っていうのはね
すっと受け入れられないんじゃないかなと思います
そんなことをやったらねぇ 人は堕落するのではないか
社会はダメになるのではないか
思うのですでもそれは教育が間違っているのです
私たちには義務っていうやるべきってという義務もないし
行ったほうがいい事っていう頭の理屈もないのですよね
勉強も仕事も育児も全てやりたいからやるのです
やりたいからやるのです
勉強は本来しなければならない義務ではないし
行ったほうがいいことでもないのですよ
やりたいから勉強するのです
なぜなら人っていうのは生まれながらに好奇心っていうのを持っている
自分が知らないことは知りたいのです
未知のものに触れたいのです
それが私たちの本来の姿です (中略)