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東武佐野線沿線CITY-GUIDE 〔カテゴリーからお入り下さい〕

こならの森205号

2008-07-19 | 201号~220号
       ■こならの森205号■2005.5発行
表紙 「前橋、高崎 」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森6月号■

としこの巻頭詩………………………3
イメージサークル……………………4
特集「前橋VS高崎」………………6
風の独り言…………………………16
書評/絵本紹介……………………17
三鴨の窓辺から……………………18
各市文化会館情報…………………20
インフォメーション………………22
 [映画・CD・ビデオ・コンサートetc.]
 イベント情報/協賛店マップ


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【本文抜粋記事】

特集「前橋VS高崎」

 今回の企画は、確か群馬県出身のあるジャーナリスト(K)?が、ご当地自慢のコーナーで高崎と前橋は仲が悪いんだよな………という言葉を聞いたことに始まります。全く知りませんでした。なにやらそれに関連すると、長野県の松本市と長野市も仲がよくないとか、もともとは地域が違っていたのですからしかたありません
。もともと長野県の中心は、松本であったのです。今の長野市はいわば、中越、新潟県域でした………。
 栃木県でもシラケル話なのでどことは今さら(言いませんが)言えませんが仲の悪い都市がはあるようですね。
 前橋と高崎について言うと、同じように似ているのではないかと私は考えたのです。つまり県庁所在地と、それとは別に発展した商業都市です。アメリカで言うワシントンとニューヨークとまではいかないかもしれませんが、同じような状況思えるのが浦和と大宮ではないでしょうか。現在は合併してさいたま市だったっけ、
にっなっていますが、私からするとどうしてこうもうまく合併できたのかと不思議でなりません。それでも、お互いの市域での温度差はあるとも聞きます。よく言えば対抗意識と言うものでしょうか。これはよく言うライバルとも言えます。ただここでいうライバルとは、あいても自分をライバルだと認識しているのかという認識が必要です。つまり、自分はライバルと思っていても相手がそう認識していなかったら成り立たないと言うことです。今風に言うと、ライブドアーとヤフーとか、楽天=巨人とか楽天=ソフトバンク(これは不等号マークが正解か)とか?

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こならの森204号

2008-07-18 | 201号~220号
       ■こならの森204号■2005.4発行
表紙 「麦畑 」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森5月号■

イメージサークル……………………4
ヤンバルのー子の青春レストラン…5
特集「おぞねとしこメモリアル」…6
風の独り言…………………………16
書評/絵本紹介……………………17
三鴨の窓辺から……………………18
各市文化会館情報…………………20
インフォメーション………………22
 [映画・CD・ビデオ・コンサートetc.]
 イベント情報/協賛店マップ

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【本文抜粋記事】


編集後記
こならの森から

 おぞねとしこさんの「花」という詩に触発されてこならの森を創刊した。そんなことから、宇都宮のミニコミ誌より取材の申し込みがあった。10年近く前だったろうと思う。この原稿を書く直前まで探したのだが結局見つからなかった。話の内容も定かではない。創刊秘話はたくさんあるのだが、一番はこの「花」のことだろう。表紙にも、たびたび花の写真が使われた。実はこれにはわけがあって、当時から2色刷だったために、赤系と青か緑系の色味のあるものがよりカラー印刷に近かったという制作上の理由からだった。してみると、「花」が創刊を決意させた詩であるというのも、あやふやになってくるのか。
 創刊号よりおぞねさんの詩は掲載している。だが、こならの森より前から他市のタウン誌にも投稿しておりパクリかと思われた方もいるかもしれないが、こならの森以前につくっていたミニコミ誌で最初におぞねさんの詩を取り上げている。詩に添えてイラストをおのおのの担当者が寄せている。あろうことか、私もイラストをかいている。そしてもちろん題名は「花」である。ご紹介したいが、これも探したのに1~3号がどうしても見つからない。少しの間は自分探しがつづく。
 受験シーズンも最終章にさしかかった。我が家でも一人受験生がいるので大変だが、実際には親のほうが大騒ぎしているというような状況だ。
 受験勉強をした頃も懐かしい思い出であるが、未だに当時の参考書を持っていたりする。
 一番心に残っているのは、ベルレーヌの有名な詩だった。これは、訳者がまた別な次元にまで世界を高めてしまっていて、いったい真実(原題)はどこにあるのかという疑問と、外国語を日本語にすることに対する自由度や不完全さを思い知らされたことでもあった。この参考書では、原文のフランス語と英文訳、さらに堀口大学の日本語訳も載せているが、全ては全く別な次元になっている。
 「教科書」とは違って砕けて書いてある。不倫や女郎吉原、差別など文学が当時の社会現象を扱うことによっては避けて通れない問題にも触れている。この参考書を手にしたことが今の自分に何らかの影響をあたえたとは思わないが、今でも捨てられないでいるところを見ると「参考書」というより「教科書」であったということなのだろう。

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こならの森203号

2008-07-17 | 201号~220号
       ■こならの森203号■2005.3発行
表紙 「 火の見櫓」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森4月号■

イメージサークル……………………4
ヤンバルのー子の青春レストラン…5
特集 「ご近所のエッフェル塔」…6
風の独り言…………………………16
書評/絵本紹介……………………17
三鴨の窓辺から……………………18
各市文化会館情報…………………20
インフォメーション………………22
 [映画・CD・ビデオ・コンサートetc.]
 イベント情報/協賛店マップ

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【本文抜粋記事】

ご近所の通天閣&エッフェル塔
そして今話題の「東京タワー」
 =「火の見櫓」グラフティ

■まちのシンボル
 「火のみ櫓」
 その役目を終えれば反対があっても跡形もなく取り壊される昨今の状況下で、まだ使えるのに撤去されてしまうもののなんと多いことか、その反対にあるものの一つが火の見櫓だといってもいい?
 道路元標が街の中心地に置かれたように、火の見櫓も地域の主だった施設が集まる場所に置かれている。編者にとって子どもの頃は遊び場だった、怖くて途中までしか上れなかったが、というより非常時以外は下の梯子ははずされておりやたらに上まで行けなかったように記憶している。それでも中にはてっぺんまで登って先生に注意される強者もいた。
 火の見櫓からまちづくりを考える会事務局長・常葉学園大学造形学部講師『土屋 和男さん』によると、静岡県内には千近い火の見櫓があるという。2年半かけて調査をしたということだが、全く同じデザインというものはないということだ。確かに、今回取材した火の見櫓も全く同じというものは無かった。でも富士町と大栗町ではデザインが似通っていて写真を整理している段階では区別が付かなかった、もしかしたら全く同じものだと思った。しかしよく見ると細部が一部だが違っている。(間違い探しではないが、読者の皆さんも違いを探して見ましょう)。
 また「古い火のみが残っているところには、趣のある家並みも残っている」と土屋さんは言っている。まさしくそうであろう。「趣のある家並み」と比例するくらいに火のみそのものの趣が際だっている。
 全体的には、村の人口に比例して立派な作りになっているようにも見える。あるところでは、隣町と張り合って、寄付金を多く集め、より高く立派にした、あるいはその規模を競い合ったということもあったのかもしれない。なにしろビルなど無かった時代、とにかく人工物としては目立つ存在だから無理もないことだろう。もちろん都市部では、そのビルのおかげで火災の発見が困難になり廃止へと先に追い込まれた。
 編集も佳境に迫った段階で飛び込んできたのが、この火の見櫓、なんと『基壇』の上に乗っている。これは、通天閣がもともとは、凱旋門の上にエッフェル塔を乗せたものだというあの作りに似ている。形も全くそのものズバリのようにも思えてくる。基壇部分にあたるところはもちろん消防車の格納庫となっている。「ポンプ小屋の」隣に火の見櫓が建っている、という既成概念を覆してタワー(通天閣)のごとく、君臨している。
 しかも、この火の見櫓は町の中心ということではない。ごらんのとおり、町はずれである。しかも、大平町と岩舟町との境に位置する。他の資料をなどを参考にしてみると、山火事などで地域を越えた延焼があった場合などの中継地点となっているのではないかと、推測される。

■地域社会と火の見櫓
 地域の空洞化が叫ばれている、かってあったようなものをそのまま現代に(復活)蘇らせることは不可能だが、であるならば違った形であるいは現在の状況に合わせて再現していかなければ不安な時代を生き抜くことはできないであろう。でないと、火の見櫓の新機能として防犯カメラの設置が加わらないとも限らない。

■地域からの発信
 都会も田舎も火の見櫓を通してみていくと同じような要素がある。どちらも役目を終えた、厄介払いなもの扱いであることには代わりはない。それでも、取り壊されず残っているのは単なる都市化以前であるということだけだろうか。
 普段の私たちの目線は、見下げることはあっても見上げるということが少ないだろう、だからこそ下からのぞきこんでみると違った世界が現れる。これは視覚的なものだけではなく、そういう発想で町づくりを見ていく視線がこれからは必要になってくるのだろう。過去には当然と思われた機能やシステムが今忘れ去れていく。ヨーロッパではそうした濃密なものを取り戻そうと行政をも含めた動きが出てきているという。日本の火の見櫓がそうしたもののシンボルとしてこれからも存在することには意義があるのだろう。地域の人の命とその次に大切なものを地域の手で守る。そうした考えてみれば当たり前のことが守れなくなってきている。

 ある資料によれば昭和30年の火の見櫓の総建設工事費は118800円(うち寄付金92900円)だった。基礎のコンクリート用の砂や砂利は地区に人の手で川から運ばれたとあるので、その分の費用を加えるともっと高いものになっただろう。というより現在だったら逆にその人件費の方が高くつくであろう。製作は地元の鉄工所があたっているようだ。佐野地区でも同じ状況だったと思われる。今でも地域に残る火の見櫓の所有者は町内会などの組織体である。


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こならの森202号

2008-07-16 | 201号~220号
       ■こならの森202号■2005.2発行
表紙 「 道路元標」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森3月号■

インフォメーション…………………4
ヤンバルのー子の青春レストラン…5
特集 「安蘇郡近隣 道路標識」…6
風の独り言…………………………16
書評/絵本紹介……………………17
三鴨の窓辺から……………………18
各市文化会館情報…………………20
インフォメーション………………22
 [映画・CD・ビデオ・コンサートetc.]
 イベント情報/協賛店マップ

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【本文抜粋記事】

最初で最後「安佐」の原点企画
安蘇郡近郊の道路元標をめぐる

 気軽に進めた割には、一番やっかいな企画になった企画ともいえる今回の企画。(よくわからん、気になる木みたい)
 最初に取材した葛生町のものが順調だったがために、後がいけなかった。この辺が、「元標」のもつ『元』という言霊的意味合いが強く関係するのかもしれない。
 何はともあれ、安佐地区に現存している元標は4つあるらしい。少し前に何かと話題になった、佐野町(元佐野市)のものはみなさんもお目にかかったことがあるでしょう。現在の田村耕一記念館前にあるし、市役所へ向かう道と旧50号線が交わるメインストリートですから。
 ともかく安佐の核となる2地点をゲット、気をよくして、よせばいいのに館林市まで触手を伸ばすことに………なにせ東武佐野線沿線のタウン誌ですから~~(残念)。
 葛生町、佐野町、館林、どれもやはり区画整理や道路拡張にともない、厄介ともとれる元標には目もくれなかったようです。実際に、『保存』はされているようですが、どこも手厚く『保護』されているようで、現状を維持するところまではいっていないようにみえました。次に館林市の路線的によく分からない122号線を進み、やっとのことで出会った、元標にはある意味感動しました。というより、ここであろうと予測した地点に存在していたからです。
 でも場所的にいうと、歩道橋の下でまったく、その意味性や価値観など忘れ去られたものであるようでした。ちょっと、つまずいて倒されても(現実には不可能ですが)その後には何もないでしょう(再建されない)。
 しかし、ここで一番興味を引かれたのは、歩道橋の下に忘れ去られている存在にもかかわらず、その前は小学校であるからです。
なぜかという、安佐でも(なつかしいですね、この文字が使えるのは今しかありません、今ここでこの文字を使えるのは、今年限りです)小学校前という過去の記述はありますが、実際に学校の前にあるという元標は(安佐地区では)、現存していませんでした。編集室から100メートルもしないところに実際には、その(まぼろし)の元標が記述によりば実際に存在していました。私も、未だに探し求めてはいますが………。
 ともかく、この場所に当初から存在していたのではないかと想像します。もちろんその後の取材で、それがあやしいものだと思われるようになるのですが、取材した時点ではそこまでは確認してはおりませんでした。
 その後はスムーズに進むはずでした。ある晴れた日の午後に、田沼町方面へ取材に向かいました。二転三転して、現在は「オカリナの里」に移築されているという、「野上村」元標を取材するべく車を走らせます。ところがつるべ落としの冬、あるいは出発するのが遅かったのか、到着する時点ではもう夕暮れとなってしまいました。なにはともあれ、写真には納めました。一部ストロボを使ったので、まったくこれは夜景ですね。本来なら、この後に氷室まで取材に向かう予定だったのですがとても無理、その時点では「氷室」の取材はあきらめて他のものだけで構成をしようと思ったほどです。それでもよかったと思ったので、このまま取材を続け、編集に入りました。いつも発行が遅れ気味なので今号は順調にと思ったほどです。ところが、たまたま葛生方面へいく予定があり、そのついでにと、再度「氷室」への取材をここみました。とはいっても、時間はありません。実際には本来の約束の場所に到着するのがギリギリというくらい切羽詰まった予定となってしまいました。それなのに、予定していた「氷室」の元標は、見あたりませんでした。
 このときは時間がなかったのだからしかたがない、………とでも書けば、こならの森の読者は私の努力を納得してくれるだろう………。
 そのまま、文章化していれば良かったのに、再度取材のチャンスが訪れました。今度は時間はたくさんありました。日が暮れないうちに取材ができれば大丈夫な時間帯です。そのためか、余裕であたりの風景などを撮り、目的の場所に到着。前回は、時間もなかったので、「その先」まで行かなかったのだ。そう本当に思って来ていましたから、確信を得ています。ところが、その先にいくら行けども何もありませんでした。ここからが問題なのですが、おもいあまって秋山学寮まで来てしまいましたが、目的の元標には巡り会えません。また、元きた地点まで戻り、はたまた道をさかのぼっていって、道ばたのおじさんに不審がられる始末です。
 それでも、みつかりません。これで足かけ3度。涙が出ました。

 ここまでやったのだから、読者も納得してくれるだろう、このまま書こうと心に決めたそのとき、ある会合でみなさんおなじみの郷土史家、京谷博次さんと会う機会を得ました。そうそうに質問をするとあっさり、移動しているとの返事、今までの私の苦労はいったい何だったのだろうという反面、最初から聞いておけば良かったとの反省しきり。そこで、再度気を入れ直して取材に向かいました。木浦原にまで移動しているとは、まったく思いもよらない結論でした。

 でも、またここに落とし穴が………

ざぜん草の宿営地まで

カーブを曲がるとそこは一面の銀世界、さらにつづく、なんだが埋蔵金探検の頃の思い出がよみがえります。あのときは、怖いもの知らずでのんきにさらに進んで、急な上り坂の凍結路面の途中で車が自然にバックしてしまう羽目に………、なんとも恐ろしい思い出であることか………
 さすがにそこまでは進まなかったが、やはりおかしいここまで奥地ではないはずだと、Uターンする。実際には、さらに奥だった………となり、またしても再取材となる危険性が無かったわけではないが、このときばかりはその方が良いとさえ思えるほどでした。
 しかしながら、木浦原地区の最初の民家まで降りてくると不思議なことに、そこに元標がふっうと現れました。まるで予期しているかのようでした。あたりは本当に閑散としています。まことに冷たそうな清流が音を立てている。それ以外何もないといってもいいくらい。木浦原地区というのは、地区とはいって人家のないキャンプ場、という思い違いをどうやらしていたようです。というのも、そのまえ、木浦原の少し手前で人家が途絶えてしまい、急な道が続いて林道になり、とても人家のある場所まで道があるとは思えないからです。陸の孤島とでもいうのだろうか。
 でもそこでは、縁側で髪の毛を切っている人影が見え、まったく屈託のない日常が私たちとは違った次元で淡々と流れているような気がしました。桃源郷なのだろうか、否………
それは私には計り知れないことです。

 本来、ここで取材は終了であるはずでしたが、さらに峠を越えて、田沼方面(野上村道路元標)まで抜けようと考えました。先ほどの、凍結雪道路面という教訓は生かされていないようだった………
 野上村の道路元標は、バス停のそばに最近まで転がっていたということです。あわてて、昔の写真を探してくるが、ちょっとしたアングルの違いで、元標は写っていなかった、残念。
 前に来た、オカリナの里まで戻ってきた。写真を撮り直します。やっとのことで、全ての取材を終え帰路へと………。

 今までのものは、存在が確認されているものを取材したものですが、これ以外にもまだまだ現存している元標が数多くあるはずです。
 「郡道との分岐点、分合点」など暗号?かともとれる記述があり、宝探しのような模様です。宝を隠した地図を読み解いているようでもあります。詳しい資料がありませんので、現在のどのみちなのか分かりません。
 大正時代の生活などは想像できませんが、その時に生まれた人(元標が設置されたときに同じ空気を吸った人)も現存しているわけですので、そう古いというわけではないようです。町の長老に話を聞けば、設置当時の場所や遍歴などが分かるかもしれません。

 それにしても、終えてみると安佐一週です。最後の最後、合併前に全土をよくみておけといわれているように思ってなりません。そんな思い深い企画となりました。それにつけ、まだまだこの新・佐野市は奥が深いようでなりません。安佐という名前は無くなりますが、これからも興味の尽きない場所になることでしょう。こならの森も気が抜けない日々となります。

■今回取材した道路元標
葛生町道路元標
氷室村道路元標(水木地区)
野上村 道路元標(高ヶ谷地区)
多々良村道路元標
(国道122号高根沢歩道橋下)
館林町道路元標(本町二丁目交差点)

参考資料

●道路元標とは?
 道路元標は大正時代の「道路法施行令」によって、全国全ての市町村の当時の道路の中心となる地点に1基ずつ設置され、国道・県道などの路線を決める際には、元標を起終点とすることが定められていた。同法令により規格が決められている。
 昨年11月1日の全国の市町村数は2,942だが、大正11年当時は12,315の市町村があり同じ数の道路元標が建てられていた。 現在調査を行っているところもあるが、その全体数は把握されていない。もしかしたら、街角に古くからおかれている石がそうかもしれない。


安蘇郡にかってあった場所(■は今回取材したもの)

■佐野町 安蘇郡役所前 (府県道宇都宮前橋線)
   
 旗川村 大字並木地内役場前 (府県道宇都宮前橋線)
   
 植野村 大字植野地内小学校前 (郡道佐野植野線)
   
 界 村 大字馬門地内 郡道佐野界線ノ終点(町大道トノ丁字路)
   
 堀米町 大字堀米地内小学校前 (府県道宇都宮前橋線)
   
 犬伏町 米山前丁字路 (府県道宇都宮前橋線)
   
 赤見村 郡道佐野赤見線ト赤見富田停車場線トノ分合点

 田沼町 大字田沼地内 府県道佐野田沼線ト田沼葛生線トノ分合点

 常盤村 大字仙波地内役場前 (府県道葛生粟野線)
   
■氷室村 大字水木地内 郡道佐野氷室線ト役場ニ通スル町村道トノ交叉点
   
■野上村 大字高ヶ谷地内役場前 (郡道佐野野上線)
   
 三好村 役場前三好橋下 (郡道佐野野上線)
   
 新合村 大字閑馬地内役場前 (府県道彦間田沼線)
   
■葛生町 大字葛生地内 府県道田沼葛生線ト葛生粟野線トノ分岐点
   
 飛駒村 府県道彦間田沼線ト彦間桐生線トノ分岐点 
 

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こならの森201号

2008-07-15 | 201号~220号
       ■こならの森201号■2005.1発行
表紙 「関東の道後温泉 」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森2月号■

結婚しました。………………………4
ヤンバルのー子の青春レストラン…5
特集 「館林の楽しい歩き方」……6
風の独り言…………………………16
書評/絵本紹介……………………17
三鴨の窓辺から……………………18
各市文化会館情報…………………20
インフォメーション………………22
 [映画・CD・ビデオ・コンサートetc.]
 イベント情報/協賛店マップ


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【本文抜粋記事】

館林市

まちなか散策ガイド

 今回の取材を通して、一番痛感したのは、「佐野は元来、厄除けや佐野ラーメンという、知名度の高いものがあり、さらにはアウトレットもできて好条件が揃っている、何も館林まで来てまちの散策などを取材しなくてもいいのではないか」と「まちやサロン」の係の人に言われたことだ。羨望のまなざしだった。いくら状況(現状)を説明しても、そういわれてしまうと返す言葉に困る。佐野は何が一番いけないのか、気質か、風土か、人間性か、分析にはことかかないのだが………活性化に対する答えはあまりない。ある意味贅沢な悩みなのかも知れない。今回はみなさんとそんな糸口を探りながら、出口について考えてみたい。

 表紙にも掲載したように、四国道後温泉にも似た建物を見たことが今回の一番の触発であった。早速道後温泉のある松山市の観光課へネットアクセス、どのくらいに似ているのか、写真掲載承諾を依頼したら直ぐにオーケーがえられた。掲載しているものは、その時の写真である。
 
・清流が消えてしまった。
 しばらく清流劇場には行かなかったのだが、無くなっているとは思わなかった。こならの森配送ルートであったのだが、その道がだいぶ変わっていった。そしてその近くに、思いもよらない歴史的な建物が建っているとは………これは、建物探検隊でなくても興味津々であるに違いない。
 そんな流れのまちなか散策、スタート地点がこれまたレトロな館林駅という点は評価が高いだろう。そして、写真でも少し紹介しているが、駅前から少し離れたところにある東武鉄道の施設であろう建物が目を引く。よく見ると壁面に東武のマークが浮き彫りされている。コンクリート造りの外観からすると昭和初期の建設だろうか。まだ、ひとつも案内マップに示された場所にたっしていないのに、これほどの驚きであった。次が期待できる。いつも思うことなのだが、こうした取材で一番活躍するのは自転車ではないだろうか、つねに折り畳み式の自転車が欲しいとは思ってきたのだがこの時ほど痛感したことはなかった。さらに電動アシストや、電動バイクがあればいいのにな~と思ったが、ぜいたくか。

 駅前に降りたって、最初の目的地を散策する。綺麗に整備された、駅前通と、映画のセットの裏側かと思われる裏町、細く頼りない路地がことのほか好奇心を刺激した。なんだか忘れていた昭和中期がほのかに薫る。現代社会に矛盾を感じ始めている世代の人は、館林駅まできたら少し道を離れて寄り道してみることをおすすめする。
 今回は車での移動なので、一方通行などがあり案内マップの順番(館林駅からの徒歩を前提にしたもの)通りにはいけなかったので、興味のある方は、順番通りに通ってみてください。
(1)竜の井(たつのい)
 井戸は、曲がり角などが見つけづらく、少しとまどったがたどり着くことができた。以外と駅前ロータリーから近い。案内板が設置してあるので、詳細はそれを参照されたし。


(5)旧二業見番組合事務所
 次に向かったのが本命とも思える、旧二業見番組合事務所。住宅街の一角にひっそりと建っているが、存在感は充分で当時の賑わいが聞こえてくる。現在は集会所として使っているので、中には入れなかったが、内部もあまり手が加えられていないようである。路地を抜け裏側にも回ってみたが、回り廊下となっており「ハレとケ」というのか、興味がわく。表の顔とは裏腹に裏面は質素でもある。ライオンにたとえると、派手なたてがみの様相とはがらっと変わっていた。
 「旧二業」に出会ったときは、本当にびっくりした、というよりも感動した。佐野も最盛期には200人を超える芸者衆がいたというが、建物からするに同規模の賑わいだったのであろう。また、それが現在にまで残っていると言うことの方が驚きだが。

(6)清流神社
 それより前の曲がり角には清流神社があった。井戸を囲む社。最初に紹介した竜の井とはかつてつながっていたという。
(今にして思えば、映画館の清流という名前もここから取ったのだとおおよそ想像がつく)。また現在でも、清流通りという看板を目にすることができる。

(4)外池商店
 旧二業からも見えるほど小道の突き当たりにある。一方通行なので、右には曲がれなかった。外観の写真を撮っていると、中からのぞき見る人影が、あわてて取材の旨を伝えると、快く承諾していただけた。「そんなに古い建物ではないんですよ」と、おかみさんが謙遜しながら話す。

(3)青梅天満宮
 藤原道真縁の天満宮という。場所がよく分からなかったので、近くの人に聞くが、親切に教えてくれた。まだ、人の情が色濃く残っているところでもある。些細なことなのだが、とても嬉しくなった。

(2)毛塚記念館
 一度通り過ぎ、駅前近くまで行ってしまいUターンしてやっと見つけた。江戸時代からの造り酒屋で国の登録文化財となっている。この日は鍵がかかっていて中には入れなかった。

(番外)清流劇場へ
 現在の清流跡地には、ミニFM局がある。ここから少し行くと曲がりくねった道が続くが、そこに趣のある蕎麦屋さんがある。だいぶ昔からしっていたが、今回は思い切って中に入ってみた。お客さんと思ったのか身構える店主とおかみさん。そとにある煙突は石炭を燃料にしていたときの名残だという。なんと言っても入り口にかかっている看板が泣かせる。骨董市にだしたら建物よりも高い値が付くに違いないと思えるほどだ。

(7)鷹匠町の町並み
 この場所もいつも通っていた道である。現在は新しい建物が建ち整備されている。内部の公開は土日が中心と言うことで、これまた中には入れなかった。

(8)館林城土橋門
 こならの森の創刊3号にも登場している城門。昭和58年復元。

(9)旧秋元別邸
 最後の館林藩主にゆかりのある建物という。純和風の建物のそばに白亜の洋館が建っている。当時はハイカラであったのだろうが、今見るときょとんとする。目が点状態だ。
また近くには、
・田山花袋記念館・田山花袋生家・上毛モスリン事務所・向井千秋記念館などのスポットが隣接してある。

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