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東武佐野線沿線CITY-GUIDE 〔カテゴリーからお入り下さい〕

としこのポエム

2005-06-25 | 本文記事
あじさい

雨だれに紛れて
そっと 音もなく
地上に舞い降りたのは
水晶の絵具箱を抱えた
エンゼルたち

人間が
みんな眠った
そのすきに
急いで 急いで
息つく間もない
大仕事

誰も知らない真夜中に
白から青へ
紫から紅へ
あじさいの花びらを
ひとつずつ 丁寧に

ど・ぶろぐ

2005-06-23 | 私の至福の時
今の私のささいな至福の時は、夜遅く素面で帰ってきた時です。

 もう真夜中のお昼を回っているのに、ひとり宴会と称しマイブームならぬ「マイ盛り上がり」に興をこらして冷蔵庫をあさり、あり合わせのおつまみをつくってちびちびと焼酎を飲みながら思考(夢想)にふける時。
 最近では毎日十一時以前には寝てしまうという生活を送っているので、それ以後も目覚めているという事態は、非日常にさえ思えるのです。ですからそれ以後の時間はある意味アウトローな世界です。
 ですから明日のことなど考えず、ハイになってしまう瞬間がまた絶望と裏腹のキワイ瞬間ではありますが綱渡りのように一番楽しめるのです。またそう思う心のどよめきが好きです。ささいなできごとに生きている証が見えてくるのだからたまりません………っておおげさか。
 だめだと分かっているのにのめり込む恋愛(不倫?)に似て………。オイオイ。
 仕事でもそうでしょう、極限まで忙しくなると、その場を超越した空間が広がります。これは、時間をも超越したりします。もちろん、仕事そのものがうまく運んでいるという必須条件があります。逆にいうと、うまくいっているからこそ、極限まで持ちこたえられるのでしょう。

 だいたいこういった原稿を考える時点でかなり、日常(素面)ではなくなており、ほとんど非日常です。多分明日になれば、修正がかなりはいることでしょう。今だけの幻のぶろぐ、「ど・ぶろぐ」かな………

おぞねとしこMEMORIAL

2005-06-17 | ■特集企画■
 みなさんご存じのことと思いますが、詩人おぞねとしこさんが亡くなりました。こならの森にも創刊号から詩やエッセイを掲載させて頂きました。今回は、エッセイを通じておぞねさん像を振り返ってみたいと思います。また、次号より今まで掲載してきました詩を再度掲載していこうと考えております。また、本誌に書評を連載しております高田朱夏さんからの文章も掲載いたします。





第1回
「アリギリス」



 21世紀まで、あと11年になりました。
 現在、若者と呼ばれている(自分で若者と決めている)人は、アリギリスの世代です。注意して見れば、確かに私のまわりにも多くのアリギリスが住んでいます。この世代こそ新たな文化の担い手となるでしょう。
 アリギリスは、蟻のように働き者です。けれど、仕事のことしか頭になく、「会社、会社」とわき目もふらずに駆けまわっているのではありません。
 アリギリスは、キリギリスのように陽気で遊び好きです。しかし、遊ぶことしかできない、ぐうたらな怠け者ではありません。無計画に時間を浪費したり、無責任な行動をとったりはしません。
 アリギリスの心には、いつも「ゆとり」があります。
 「ゆとり」は物事をてきぱきと能率よく処理する能力から生まれます。余暇の利用方法もこの能力によって幅が広くもなり、狭くもなります。
 自ら生み出した余暇を何に使うか・・・?
 それは登山であったり、サーフィンであったり、人さまざまですが、それらと平行してボランティア活動も多く見られます。 言うまでもなくボランティア活動・・・特に心身にハンディを持つ人と直接かかわる活動は、地味な努力が要求され、苦労がつきものです。アリギリスは苦労を楽しみ、自分自身の成長に役立てるエネルギーを持っています。
 アリギリスは人を楽しませることによって、自分も楽しみ、幸福を感じます。アリギリスにとって「遊び」は余裕であり、心の「ゆとり」なのです。そして「ゆとり」こそ、「優しさ」の源だと私は信じます。
 さあ、この青空の下で、愛すべきアリギリスが繁栄しますように・・・ますます毎日が楽しくなりますように・・・願いを込めて、乾杯!





第2回
「ホップ・ステップ・キャンプだホイッ」



 六月になりました。
 いよいよ今年も目の前に、本格的な夏が迫ってきています。
 真っ青な空に白い入道雲が浮かび、アブラゼミの声が聞こえると、山や海辺で多くの人達がキャンプを楽しむ姿が見られます。夏は雄大な自然の中に身を委ね、おおらかな心を取り戻すことができる絶好の季節だといえるでしょう。
 学校や子供会のキャンプ、家族でするキャンプ、スポーツクラブのキャンプなどいろいろありますが、今日は身体にハンディを持つ人達と共に生活するためのボランティアサークル『みんなの会』のサマーキャンプをご紹介します。
 『みんなの会』では毎年八月に、車椅子を使って生活している仲間と健康な若者達が、企画の段階から力を合わせてキャンプを楽しんできました。この夏でそれは九回目になります。一昨年は葛生の秋山学寮を、そして昨年は田沼の作原グリーンスポーツ施設を利用しました。
 「同じ釜の飯を食った仲」という言葉があるように、ハンディを持つ人達と寝食を共にすることは普段の表面的なつき合いでは絶対に得られない信頼と友情をお互いの胸に確かに育むことができます。
 一緒に力を合わせて料理をし、キャンプファイヤーを囲んで歌を歌い、夜更けまで語り合い…………翌朝はハイキングや水遊びもします。手と手が触れ、肌と肌が触れ、すがすがしい澄んだ空気の中でお互いに心も身体も裸になります。気がねや遠慮や不必要なこだわりから心が解放されたとき、人間は目の前の現実をありのままに受け入れ、本当にお互いを理解するための第一歩を踏み出すのでしょう。誰にとっても幸福のために流す汗は素晴らしく爽快です。
 与えられる愛に、ただ感謝するだけでは充実した人生を送ることはできません。このことは総ての人に共通していえることです。毎日の生活に何か物足りなさを感じていたら、疑問や不安を抱いていたら、今すぐ動き出してください。
 さあ、この夏あなたも『みんなの会』のサマーキャンプのスタッフになってみませんか…?キャンパーの一員として参加してみませんか………?
 あなたが男性なら心許せる男友達と、明るく優しいガールフレンドに巡り会えるかもしれません。あなたが女性なら生涯の相談相手と、熱い瞳で夢を語る気立ての良いボーイフレンドが待っているかもしれません。
 ときめきの新しい季節は、もうすぐそこまで近づいています。『みんなの会』への問い合わせはTEL.0283(22)6993まで


第3回
「夏という名の学校」




 七月の声を聞くと、多くの子供達は学校が夏休みに入るのを楽しみにしています。旅行や海水浴のプランを立てている家庭もあるでしょう。父親や母親の郷里を訪れる人もいるでしょう。目を閉じると期待に胸弾ませる子供達の心臓の鼓動が間近に聞こえてくるような気がします。 人間が作った「学校」・・・。大人が子供のために作った「学校」・・・。子供をより良い人間にするために作られた「学校」・・・。
 しかし子供達にとって、そこは知識の一部を習得する場所の一つにしかすぎません。現在では大部分の子供が通っている
「塾」もまた同じです。もしかしたら大人は、普段その場所を信じ過ぎ、頼り過ぎ、子供達を委ね過ぎてはいないでしょうか。 心も体もしなやかな子供達は、自分を取り巻く環境から様々なことを吸収します。土からも、風からも、木や草や鳥や虫からも、犬や猫や馬や牛からも、大切なことを学びます。そして子供達に一番大きな影響を与えるものは身近に触れる人々の生きざまです。
 どうぞ、この夏休みには子供達に父親や母親の職場を見せてあげてください。家事を手伝わせてあげてください。お年寄りの話し相手をさせてあげてください。養護学校に通う子や施設から帰省してきた子とも遊ばせてあげてください。たくさん褒めてあげてください。時には、時計のない日を設けてあげてください。力いっぱい両手で抱きしめてあげてください。そして何より子供達の話声に耳を傾けてください。
 夏は校門も塀もない大きな自然の学校・・・そこでは、子供が先生で大人が生徒になることさえあります。空も大地も染め上げる夕焼けの美しさを数字で表すことは出来ないように、人間の価値も数字で決めることは出来ません。限りある生命の時の一瞬一瞬を輝かせることの名人になるにはどうしたらよいか・・・それはまさに大人が子供から学ばなければならない最大のテクニックのような気がします。 もし、あなたもそのテクニックを自分のものにしたいなら、いますぐ子供達の傍らにあぐらをかいて座ってください。
 夏という名の学校には、試験なんて、ちっぽけなものはありません。


第4回
「ゆりかごに
  守られて」


 「私は何も悪いことはしていません。」
 「誰の世話にもなっていないし、誰にも迷惑をかけていません。」
 このセリフは、最近ある人が私の前で何気なく口にしたものです。そして、今まで手にしていた吸いかけのタバコをポイッと地面に捨てました。
 それを見て私は「あぁー」と思いました。その場所は、ついさっき「おばさん」がホウキで掃き清めて行ったばかりだったからです。
 同時に、私は彼の言葉に疑問を覚えました。人間は毎日、肉や魚や穀物や野菜を食べて生きています。人間に食べられる、牛や豚や鶏にも「いのち」があり、麦や稲やにんじんやジャガ芋も生きているのです。「食べ物」になってくれる動物や植物の「いのち」の犠牲の上に私達の「いのち」は営まれています。それはー犯罪ーではなくても、自然に犯しているー罪ーではないでしょうか。
 また、人間は誰でも生まれたときは何もできない赤ん坊です。周囲の人の手をわずらわせなければ生きていけません。夜も昼もかまわずに泣き、おむつを汚し、カゼをひいたり、お腹をこわしたり・・・。それは大変なものです。
 大人はと言えば、やはりいつも誰かに世話になったり、迷惑をかけているような気がします。髪が伸びれば美容師さんに、歯が痛めば歯医者さんに、バスに乗ったら運転手さんに、ご苦労をかけるのですから・・・。お酒が飲めるのも、洋服が着られるのも、それを作ってくれた人のお陰なのですから・・・。
 けれど多くの人達は、忙しい日常生活に追われて、そのことを忘れてしまいがちなのです。すべてのものが激しい時の流れの中で、めまぐるしく変化している今の時代は、目の前のハードルを一瞬一瞬クリアーするのが精一杯だとおっしゃる人もいるでしょう。お金さえあれば・・、お金さえ払えば・・・、何もかも当然のことと考える人もいるでしょう。でも、人間は地球の上で他のたくさんの動物や植物と共に生かされている「いのち」のひとつにしかすぎません。地球の上でしか生きられない、他の犠牲によって生きている「いのち」です。いつも人間は地球という「ゆりかご」に揺られているのです。
 さて、さっきポイッと地面に捨てられたタバコの吸い殻・・。私の傍らの青年が飲み終えたコーラの空き缶にポンと入れて、スタスタとくずかごに捨ててきてくれました。それは誰にも気づかれない、さりげない仕草でした。
 青年の着ているシャツに英語で「ラブ&ピース」とあったのを私が思い出したのは、その夜、TVでアメリカの科学者、ケラー博士がまことに堂々として、 「原爆も、その他の核兵器も人類にとって必要なものです。」 そう言いきったのを、この耳で聞き、この目で見た時でした。


第5回 
「手紙」


 “プルルルルー”
 “プルルルルー”
「しばらくです。お元気してますか・・・?」
 受話器を取ると瞬間的に、お互いの声を伝えてくれる電話。現在の私達は電話のない生活を想像することさえできないくらい、日常の中で無意識に近い状態で電話を使っています。きっと今夜もあなたは、誰かに電話をかけることでしょう。そして、あなたに誰かから電話がかかってくるでしょう。 
確かに電話は便利です。けれど、もしも相手がお風呂に入っていたら・・・、食事の途中だつたら・・・、急ぎの仕事をしていたら・・・「どうしよう」と気の弱い私はいつも心配になります。そして、自分が疲れ果てて眠っているときに起こされたら、正直なところあまり愉快ではありません。 
 だから私は相手の都合の良いときに読んでもらえる手紙が好きです。また反対に自分が、一文字ひともじ心をこめて書かれた手紙を受け取った時の喜びは胸にジーンと迫るものがあります。
 台所のテーブルで書く手紙。会社で残業の合間に、休憩時間を使っての手紙。電車の中で書く手紙。今までに私は多くの人から手紙をもらい、また多くの人に、いろいろな手紙を出してきました。
 手紙を書くには相手のことをさまざまな角度から想像しなけれはなりません。笑った顔、泣いた顔、悩んでいる顔・・・。好きなもの。嫌いなもの。仕事のことや体の具合。もっと広げれば、家族のことや恋人のことまでも考えます。そうした時間つまり相手を想う時間を持つことは人間にとって大切なことです。言い換えれば、それこそが心の「ゆとり」であり、「豊かさ」ではないでしょうか。
 いま、電話をかけようとしていたあなた、とりたてて急ぐ必要がない用事なら、今夜あたりは涼しい秋風の吹く窓辺で手紙を書いてみませんか。ご無沙汰している人がいるなら、その人にも「ごきげんいかが・・・?」と出してみませんか。あなたからの手紙をその人は机の引き出しにしまって、くりかえし何回も何回も読んでくれるかもしれません。これまでは気づかなかった繊細なあなたの心に改めて感動を覚えるかもしれません。

◆◆お願い-◆◆使用済みの古切手は、アジアやアフリカの開発途上国の子供達のために役立ちます。佐野市社会福祉協議会までお寄せください。つづく

第6回
「お月見に
   よせて」

 コスモスの花が咲いて、ススキの穂が風に揺れています。秋が静かに深まってきました。
夜はコオロギ達が競って演奏会を開いてくれる、快いこの季節。いつも忙しい忙しいと、深夜まで仕事をしているお父さん、たまには早く家に帰ってみてください。
 十月は、「十三夜」の名月。この月の月を名月と崇め、「お月見」と称して、天と地に農作物の出来栄えを報告し、その恵みに感謝する美しい習慣をもつ私達です。
 現在では、昔通りに「お供え物」を揃える事は難しくなりましたが、子供達のために、この日は家族が一緒に食事をしたいものです。そして、お父さんは自分が子供のころの楽しかった事を話すのです。お母さんは聞き役です。
 思い出してみれば、子供のころは誰でも、食べること--家族揃って食事をすることが何より楽しみだったのではないでしょうか。それぞれのご飯の食べ方で、お互いの体の具合や機嫌がわかったりもしたものです。兄弟で好物の取りっこをして叱られた事も、過ぎてみればなつかしい出来事の一つです。
 最近、「朝食ぬき」で登校してしまう子供と、夜も「ひとりぼっち」で食事をする子供が増えました。時間がないから…。塾へ行くから…。理由はさまざまです。そして、彼らは一見無邪気で元気そうにしています。しかし、その小さな背中には、計り知れないほど深いさびしさを背負っているような気がします。
 子供にとって、食事は単に食べ物を胃袋に詰め込むだけの作業ではありません。礼儀作法を身につける場であること言うまでもありませんが、それ以上に、両親や家族の愛を確認するためのコミニケーションの場なのです。子供は、自分が周囲から愛されている事を確認することによって精神を安定させ、一歩一歩成長して行きます。自分が愛される事によって、他人を愛することを学びます。の人の笑顔や優しさやぬくもりを、自分の中に取り込んでいる…。言い換えれば、愛を食べて生きている…。私にはそう思えてなりません。
 お月見の夜、ひとりぼっちで夕飯を食べる子が一人でも減りますように…。笑顔が一つでも多く増えますように…すべての人が命ある事に感謝の気持ちを持てますように…。




第7回 
「無関心病」



 ある大型スーパーの上り階段で、手にした荷物に気を取られたおばあさんが転びました。おばあさんは五、六段下のフロアに落ちたまま、起き上ることが出来ません。仰向けに落ちたので腰を強く打ってしまったのでしょう。まわりには買い物をする人達がいます。幼児を連れた若い母親が通りました。ジーパン姿の学生らしい男の人も通りました。ミニスカートの二人連も、ネクタイ姿の三人連れも、おばあさんを避けるようにして過ぎていきます。それぞれに話たり、商品に目を走らせて・・。急ぎ足です。おばあさんは恥ずかしそうに、そして、痛みに顔をしかめながら、何とか起き上がろうと懸命です。どれくらいの間があったでしょうか。二人連れの中年の婦人がおばあさんのそばへ駆け寄り「おばあさん、どうしました・・・?」「起きられますか?」と言いながら、ようやく抱き起こしてくれました。
 おばあさんは痛そうに腰をさすりながらも、ホッっとした表情で立ち上がると、「すみませんありがとうございました。」二人に向かって、何度も何度もお礼の言葉を繰り返します。「お気をつけて・・・!」「お大事に・・・!」そう言い遺して、婦人達は人混みの中へ消えて行きました。
 幼い子供が誘拐され、殺害される悲しい事件。そのニュースを聞くたびに、知らない人と歩いている子に、声をかける大人がいたら事件が防げたかも知れないと思います。若者の自殺が告げられるたびに、彼等の悩みにかかわり、痛みを分かち合う人がいてくれたらと思います。自分の目の前の利益だけを追い求めるとき、人は他人の災難を見ても見ないふりをしてしましがちです。かかわることを恐れ成す。それは、一種の病気なのかもしれません。厄介な事、骨の折れる事、得にならいない事には手を出さない人ばかりになってしまったら・・・。この世界は砂漠になります。保護なしでは子供は育ちません。お年寄りは生きられません。
 無関心と言う名の病気。これは幸いに、今すぐに退治する方法があります。それはあなたが、自分の心にゆとりを持つこと。傍の人にほほえみを向けること。かかわり合う事の時間と苦労を惜しまないこと。最後の特効薬は、お金では買えないものが存在するのを知ること。それが治療のすべてです。 つづく


第8回 
「アイデアは
   愛である」 


 街角の花屋さんの店先に、赤いポインセチアの鉢が並ぶ時期になりました。今年もクリスマスが間近です。 
 さて、あなたはクリスマスの日に、誰に何をプレゼントしますか? 小さ子供たちへのプレゼントはサンタクロースにお任せするとして、「昔、子供だった人」同志がプレゼントを交換して楽しむのもなかなか良いものです。また、名前も知らない「誰かさん」のために、役立つものを贈るのも、ちょとおしゃれです。
 ある年、私の知っているお年寄りは、残り物の布を使って座布団を作り、無人駅のベンチに置きました。
 駅は朝夕、高校生などが乗り降りするので、決して物品が長持するところではありません。『ここに置いて座るも良し』『家に持ち帰るも良し』その人は笑いながら、ゆっくりとした口調でそう言いました。なんとおおらかな気持ちでしょう。この言葉を耳にしただけで心がホッカリ暖まります。
 最近、白と紺とグレーの毛玉を持ち歩いている若い女の友達がいます。私はてっきりボーイフレンドのものかと思ったので、面白半分に聞いてみました。『彼のセーターかな?』『それともマフラーかな?』すると、彼女はいつになく真剣な顔つきで話し出します。マフラーを編んでいること。それは隣の家のおじいさんへあげようと思っていること。おじいさんは今、病気で入院していること。そして最後に、『これを首に巻いて散歩に行けるように』早くその日が訪れるように祈りをこめて、毎日、暇を見つけては少しずつ編んでいることを教えてくれました。 
 彼女の澄んだまなざしは、健康な若々しい光をたたえています。私は、その光をとてもまぶしく感じて、新しい感動を覚えました。
 《アイデアは愛である》どこかで見たコピーが頭の中でこだましています。気をつけて周囲を観察すれば、いい生き方をしている人は、必ずたくさんのいいアイデアで幸福を創造していることがわかります。
 そんな人に出会える一瞬の時間が、一つでも多く与えられた人間こそ真の果報者なのでしょう。
 どうぞ、良いお年をお迎え下さい。

「おとこ」教室

2005-06-16 | ■面白写真■
 花嫁教室とか、パソコン教室の看板はよく目にするのですが、「おとこ」教室とはいったいどんな教室なんでしょうか。男らしいおとことか、男のなかのおとこ、「おとこ」もつくられる時代なんでしょう。そっとのぞいてみたくなりました。えっ、はぁ「おとこ」じゃなくって「おこと」ですか、おあとがよろしいようで………