性格について
性格とは個人において様々であると思われがちで在る。だがこのような見解に与するわけには行かない。実際人というものが持つ器官、機構が単純であるように、性格というものも一定の原理に沿って形成される。私がここで述べる性格とは感情的だとか、冷たい性格などと呼ばれる性質の客観的性格ではない。人格が形成されるために必要な材料なのである。その過程を踏んでから私はさらにこの章では話を進めるつもりである。それは性格に遺伝的素質がどの程度まで関係するかということである。そしてその問いに対する哲学的解答である。この章では環境素因、すなわち経験と遺伝的素因が密接に絡み合うであろう。
はじめにこれまで踏んできた自らの見解を踏まえ、性格に対する経験的側面を考察したいと思う。性格というものは私が先ほど述べた先入観による所が多い。例えば内行的傾向を持つ両親の間で育った子供が同じ傾向を持つように、彼らは無意識下に沈殿した先入観をその後の人生においても引きずりながら歩く。実際このようなケースが大部分である。この根拠からして私は先入観に性格の起因の大部分をおいたのである。
しかしこれは一面的見解なのである。実際性格にはこれ以外の要素も大いに混ざり合い、その形相は複雑化している。その複雑化した形相はこの論説で細かく見ていくが、そのときに遺伝的素因が原因なのか、それとも環境が主なのか?という非常に遺伝学と密接したケース(case)が生じてくるであろう。そのときには出来るだけ双方を加味した相補的見解を行いたいと思う。ひとつこの性格を細かく見ていく前に、排除すべき要素を言っておきたい。それは主観的感情である。この感情には長期的波及効果が存在しないため、この個人を象徴する性格から除外することにする。
もし遺伝が性格の本質を形作るとすれば、そこにはどんな根拠が存在するのであろうか?その根拠によって人が限定的存在として確立されているなら、生まれる前からその人の体内には、すでにその後の運命が決定されていることになるであろう。例えばゲーテを例にとれば、彼は生まれる前から作家になることを決定されていたことになる。そのようなことは本質的解釈として成り立たない。なぜなら職業というものは人間によって定められた手段でしかなく、そこに太古から備わる遺伝的素質は当然関わってこないからである。しからば安易な遺伝による決定的性格という一面的解釈に頼る理由は無くなる。
この性格という語句に正確な意味を与えるならば、それは経験の前の段階に当たるといえる。これは「遺伝的に」という意味である。この遺伝が人々に決定的な性格素因を提供するという、確固たる研究結果はいまだ出ていない。例えば今の遺伝子学でCCR5遺伝子に欠損があれば、エイズにかからないということが分かっている。しかしこのような医学的研究が完了したとしてもそこには大きな謎が残るであろう。もともとこのような見解は不動な物を研究し、それに対処しているため機械論なのである。だからこの分野の学問が完成したとして人における性格は絶対的な謎として残されるだろう。なぜならこの性格というものは間違いなく生気論、動いているものであり、幼少時は特に周りからの影響によって大きな変化を被るからである。しかしこの遺伝が最初の段階において我々の性格に少なからず寄与しているという事実も大いにあるといえる。それは我々の肉体的特長に主に存するが、多少知能指数などにも関係してくることからもいえるだろう。もちろん財産や家柄などは環境的要因であり、遺伝的要因ではない。実際この遺伝が原因で極悪人になるなどとは口が避けてもいえない大嘘である。これを証明する事柄はたくさんあるので読者に自ら調べてもらうことして、経験的性格に対する遺伝と経験との関係を見ていきたいと思う。経験的性格に対する経験と遺伝との関係は相補的観点から見て、まず遺伝とは我々が生まれてまだ小さいときには、重宝されるものであるといえる。犬が高いところを怖がるのを本性としている様に人間にも本能的部分が必然的に備わっている。例えば赤ん坊が泣く行動がそれに当てはまる。このことから察するように遺伝とは本能と同じであり、そこには個体性を超越した種の保存が要求としてあるといえる。現実に我々が目撃する例として、千年前にいた猫と同じ種の猫が今日もほとんど変わらず生きているという事実がある。だがこのような見解は他人と自分の遺伝子パターンがほとんど換わらないことと同じように、驚くには値しない。本能とは種を念頭に置き、その種に対して地球の中で生きやすい位置を見出し、与えるものであるからして、そこにむしろ人間固有の性格を当てはめる方がおかしいのである。一方経験とは外的環境から得る直観的情報を元に、抽象的解釈を作ることが主な原因であるため、それは時に本能をも理性によってねじ伏せる場合があるのである。このことからわかるように人の経験的性格とは幼少時には遺伝が大きく関わっているが、成長するにしたがってそれを占めるのは大部分が経験になるといえる。しかし精神医学者に言わせれば、その経験自体が遺伝に制約されているという意見がある。「これもまた真理である」と私は否定しないで言う。遺伝的素因によって生じた人間というものがそこからまったく影響を受けないという話ほど不確かなものはない。だから私は断片的に経験と遺伝の相違は相対的に見て、変動的であると述べたのである。もしそこにおいて遺伝が運命を決めているとすれば、優劣遺伝という言葉は存在しなかったであろう。経験に先入観が介在し、遺伝に不純物があり続ける限り、人間は自分のあまりの愚かさに気付きはしない。
性格とは個人において様々であると思われがちで在る。だがこのような見解に与するわけには行かない。実際人というものが持つ器官、機構が単純であるように、性格というものも一定の原理に沿って形成される。私がここで述べる性格とは感情的だとか、冷たい性格などと呼ばれる性質の客観的性格ではない。人格が形成されるために必要な材料なのである。その過程を踏んでから私はさらにこの章では話を進めるつもりである。それは性格に遺伝的素質がどの程度まで関係するかということである。そしてその問いに対する哲学的解答である。この章では環境素因、すなわち経験と遺伝的素因が密接に絡み合うであろう。
はじめにこれまで踏んできた自らの見解を踏まえ、性格に対する経験的側面を考察したいと思う。性格というものは私が先ほど述べた先入観による所が多い。例えば内行的傾向を持つ両親の間で育った子供が同じ傾向を持つように、彼らは無意識下に沈殿した先入観をその後の人生においても引きずりながら歩く。実際このようなケースが大部分である。この根拠からして私は先入観に性格の起因の大部分をおいたのである。
しかしこれは一面的見解なのである。実際性格にはこれ以外の要素も大いに混ざり合い、その形相は複雑化している。その複雑化した形相はこの論説で細かく見ていくが、そのときに遺伝的素因が原因なのか、それとも環境が主なのか?という非常に遺伝学と密接したケース(case)が生じてくるであろう。そのときには出来るだけ双方を加味した相補的見解を行いたいと思う。ひとつこの性格を細かく見ていく前に、排除すべき要素を言っておきたい。それは主観的感情である。この感情には長期的波及効果が存在しないため、この個人を象徴する性格から除外することにする。
もし遺伝が性格の本質を形作るとすれば、そこにはどんな根拠が存在するのであろうか?その根拠によって人が限定的存在として確立されているなら、生まれる前からその人の体内には、すでにその後の運命が決定されていることになるであろう。例えばゲーテを例にとれば、彼は生まれる前から作家になることを決定されていたことになる。そのようなことは本質的解釈として成り立たない。なぜなら職業というものは人間によって定められた手段でしかなく、そこに太古から備わる遺伝的素質は当然関わってこないからである。しからば安易な遺伝による決定的性格という一面的解釈に頼る理由は無くなる。
この性格という語句に正確な意味を与えるならば、それは経験の前の段階に当たるといえる。これは「遺伝的に」という意味である。この遺伝が人々に決定的な性格素因を提供するという、確固たる研究結果はいまだ出ていない。例えば今の遺伝子学でCCR5遺伝子に欠損があれば、エイズにかからないということが分かっている。しかしこのような医学的研究が完了したとしてもそこには大きな謎が残るであろう。もともとこのような見解は不動な物を研究し、それに対処しているため機械論なのである。だからこの分野の学問が完成したとして人における性格は絶対的な謎として残されるだろう。なぜならこの性格というものは間違いなく生気論、動いているものであり、幼少時は特に周りからの影響によって大きな変化を被るからである。しかしこの遺伝が最初の段階において我々の性格に少なからず寄与しているという事実も大いにあるといえる。それは我々の肉体的特長に主に存するが、多少知能指数などにも関係してくることからもいえるだろう。もちろん財産や家柄などは環境的要因であり、遺伝的要因ではない。実際この遺伝が原因で極悪人になるなどとは口が避けてもいえない大嘘である。これを証明する事柄はたくさんあるので読者に自ら調べてもらうことして、経験的性格に対する遺伝と経験との関係を見ていきたいと思う。経験的性格に対する経験と遺伝との関係は相補的観点から見て、まず遺伝とは我々が生まれてまだ小さいときには、重宝されるものであるといえる。犬が高いところを怖がるのを本性としている様に人間にも本能的部分が必然的に備わっている。例えば赤ん坊が泣く行動がそれに当てはまる。このことから察するように遺伝とは本能と同じであり、そこには個体性を超越した種の保存が要求としてあるといえる。現実に我々が目撃する例として、千年前にいた猫と同じ種の猫が今日もほとんど変わらず生きているという事実がある。だがこのような見解は他人と自分の遺伝子パターンがほとんど換わらないことと同じように、驚くには値しない。本能とは種を念頭に置き、その種に対して地球の中で生きやすい位置を見出し、与えるものであるからして、そこにむしろ人間固有の性格を当てはめる方がおかしいのである。一方経験とは外的環境から得る直観的情報を元に、抽象的解釈を作ることが主な原因であるため、それは時に本能をも理性によってねじ伏せる場合があるのである。このことからわかるように人の経験的性格とは幼少時には遺伝が大きく関わっているが、成長するにしたがってそれを占めるのは大部分が経験になるといえる。しかし精神医学者に言わせれば、その経験自体が遺伝に制約されているという意見がある。「これもまた真理である」と私は否定しないで言う。遺伝的素因によって生じた人間というものがそこからまったく影響を受けないという話ほど不確かなものはない。だから私は断片的に経験と遺伝の相違は相対的に見て、変動的であると述べたのである。もしそこにおいて遺伝が運命を決めているとすれば、優劣遺伝という言葉は存在しなかったであろう。経験に先入観が介在し、遺伝に不純物があり続ける限り、人間は自分のあまりの愚かさに気付きはしない。