A collection of epigrams by 君塚正太

 君塚正太と申します。小説家、哲学者をしています。昨秋に刊行されました。本の題名は、「竜の小太郎 第一話」です。

日本における迷信の解釈

2007年09月23日 02時24分10秒 | 精神医学
 私がここに提示する問題は、何も新しいものではない。それは、どこの国にでもある神話的な寓話を、分析心理学的側面から、捉えようとする試みである。
 まず、餅なし正月、という言語がある。この言葉は、昔の人々にとって、神話的な意味合いを帯びたものであった。しかも、それは、今もなお、影響を与えているかもしれないのである。餅なし正月という語句の、語源には様々な憶測が飛びかっている。これを、心理学的側面から述べると、こうなる。例えば、先祖が餅を搗いていたところへ、戦争が起きたとか、先祖自身が落人の身であったために、今も餅を搗かない、とある。これは、まさしくファウスト的な解釈を要求する問題である。かかる問題を解くためには、心理学的な深い洞察を必要とする。この問題に対して、利用できる、精神分析用語及び精神医学用語は、退行と先祖返りである。
最初に退行の意味から、説明すると、退行とは、原初的な世界に住む人々、いわゆる未開人に見られる現象である。それは、ものものしい儀式や、自然への畏敬の念から、産出される原初的行為から、説明がつく。参考文献を引用すれば、旧約聖書「ヨブ記」が妥当であろう。ヨブが敵対者に対して、神ヤハウェの前で執った姿勢、それは、苦悶と仏陀の瞑想が入り混じったような奇妙なものであるが、そこから、見て取れる行為に、重要な場面がある。自分の息子や、娘が天災や、他国からの侵略者に殺されようとも、彼は堅忍不抜の態度で、それは神が行った業であり、決して神に対して、非難を試みない、彼の姿勢。それは、まことに神話的なものごとに、傾倒する人間が行った御業ではない。彼は、その時に、退行していたのである。旧約聖書中、際立った存在であるこの書は、神話的なモチーフと人間本性の見事なまでの退行を示している。退行とは、幼児期に、舞い戻る、という意味ではない。退行とは、無意識の段階にまで、さかのぼり、自らの、贖罪を贖うことを言う。例えて言うなら、こうなる。ここに敬虔なカトリック教徒の女性がいたとしよう。彼女は、毎晩、不安夢にうなされていた。その中で、彼女は、イエス・キリストが、死に臨む光景などを見た。翌日、彼女が起きると、キリストが杭を打たれた場所に、鈍痛が走っているのを感じた。この場合、彼女の内的葛藤から、植物神経系の異常が生じ、それが、生理学的なものにまでなっている。これは、彼女の義務感や、敬虔さを示している。そう、これが退行なのである。無意識の内に、次第に肉体を侵食してゆく、魂。それこそが、退行の意味なのである。もちろん、このことは、程度の差はあれ、餅なし正月の迷信にも見られる。
次に先祖返りの意味を見ることにしよう。これも前者に劣らず、神話的な要素と深く関わりあっている。先祖返りとは、突然、一個人が、感情的な動揺に対して、古代の人々が行ったような行為を遂行するという意味である。ヒステリーとは、精神医学の観点から、述べれば、一種の先祖返りである。日本のアイヌ民族では、このヒステリーは、一種独特の信奉をうけ、畏敬されていた。イムという言葉で、彼らはこの現象を、言い表していた。感情的な、要因を伴った現象を介して、ヒステリーやヒポクラテスの言葉を借りれば、神聖病などは、この先祖返りの範疇に入る。
この二つの用語を持って、餅なし正月の問題は氷解する。迷信を信奉するものは、一種の退行と先祖返りを起こしており、そのため、しばしば、暗礁に乗り上げるのである。餅を搗けば、人が死亡するや、餅が血の色に変化するなどの迷信は、かっこうの精神医学の問題であろう。ユングが、述べるとおりに、我々は、時に、神に対する信仰を強くすることによって、精神的危機から逃れる。しかし、それでは、問題の解決にならないのである。我々は、フィヒテがドイツ国民に要求したようなことを、決して民俗学に持ち込んではならない。自我と非我の境目にこそ、神話を解く鍵は、存在するのである。分析心理学が、近年成し遂げたような、めざましい発展の事績は、無意識にある。人とは、常に意識的に、動いているものではない。フロイトが「夢分析」で述べているように、一人一人の人間によって、例証は様々ある。したがって、私が述べられる限界は、ここまでである。各国、各地に伝わる迷信や神話は、その意味合いから見て、単なる空想ではなく、そこには深い無意識の対立が存在している。民俗学とは、決して、個々の国によって分かたれるものでもない。いみじくも、民俗学者ホイジンガが述べたように、「自分の国の話になると、我々は中庸を欠くことを常とする。」のである。
ただし、それが心理学的な妥当性を示唆しているのであれば、話は別である。我々は、いかなる先入観を伴って、物事を見ているか?我々は、いかにして、その神話を信奉するに至ったのか?等々、問題は山積みである。だが、我々はここで、単なる民俗学とは、決別しなければならない。民俗学は、その根底に無意識の媒体を持っており、それは深く精神医学と関わりあう。よって、我々は、餅なし正月の例題を、軽んじてはいけないのである。我々は、真摯な態度を以って、民俗学に接しなければいけない。我々は、鼻から迷信などという、思い込みを持って、この問題に挑んではいけないのである。なぜなら、その迷信や神話を作り出したのは、紛れもなく、我々、人類であり、そこには、何らかの具体的要素が含まれているからである。

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