『日本の真髄』 R‐スコット原著 永田 石田氏訳
(一一四頁 二十四行より)
町は祭りを見に来た人々でにぎわっていた。呼びものの一つは、ウィリアム ポウエルをきっと喜ばせたであろう組立ての簡単な、古くからある四輪の山車(だし)の広間(ステージ)で劇が上演されることであった。昔はこれらのカブキは土地の若者が演じていたが、今ではブロが雇われている。演じられる歴史上のドラマのそれぞれの場面は十二に分けられていた。一つのシーンが演じられると山車は通りを移動した。それぞれの場面が終るごとに、三十人ほどの小さな男の子たちが、みな白黒のはんてんのある綿の着物を着、日本中の若者になじみとなっているドイツのぼうしをかぶり、ステージにわんさと集まった。そしてうちわを上下にふりながら、大声で〃押せ、押せ、押せ、進め〃意味するとおもわれる昔からのはやしことばを叫んでいた。このはやし言葉は、大声で重い山車を引く一組の若者にむけられていた。四つの移動劇場での上演は同時に行なわれた。時には山車はすれちがった。カブキは祭の前夜、日昼、祭りの夜のあいだ上演された。七月の暑さ、狭いステージで役者が演じるのを考えにいれても、その演技はたいへんすばらしいものであった。嬉しそうな少年たちが役者たちに舞台のそでにすわって風を送っていた。私たちの泊った宿屋の人のよい、おしゃべりのおかみは、山車が自分の宿の前にとまる回数に満足していなかった。彼女は声高に、山車を引く若者たちに、貸しておいた小道具をかえせといって、また彼ら恩知らずを死んだ夫に言ってやるといっておどしていた。
祭の間、開かれている旅まわりの一座の一つには女の役者たちがいた。男の人が女の役をし、その時には裏声を用いる日本の劇のしきたりに反して、この女役者の幾人かは男役をつとめていた。日本の劇場でのすべての興行の際に、すでに言及したとおり、警官が何が行なわれているか見、必要なら検閲できるように特別席か、そうでなければ気に入った場所に臨席する。この劇でその巡査は、親切にことに、私に自分の席を提供してくれた。観客の残りのものは床で満足していた。その貧弱な旅芸人の一座は能力と芸術家的良心をもちあわせてはいたものの、何事も劣悪な状況の中で演じなければならなかった。係のものがステージの質の悪いランプをしばしば調整するので、彼らはしばしば動きを中断された。床にすわっている小さな女の子はステージの劇に有頂天になったり、劇のこまごましたことを不思議がって、前に走ってきてステージの板にあごをのせ、役者たちをじろじろと見るかしていた。さじきの前列の人々は涼をとろうとして、むきだしの脚をだらりとなげだしていた。
幕間に劇場を出たい人々を見分けるのに西洋ではどうするのか友人の一人が私にたずねた。私は、西洋では午後早くから夜中になるまで続いて上演されることはないから、劇が終るまで劇場から出たがる人々はめったにないと説明した。日本の劇場ではしかし、観客の一部は劇の進行のある場面や、あとになってくりかえしがあると退出したくなるようである。小さな劇場のぬけ目のない支配人は彼らの手のひらに小さなハンコを押してこれらの常連を見わける。
劇場を出ると私たちは旅まわりの見せ物へ行った。彼らはお金を二銭請求した。私たちは、人魚、のぞきからくり、ヘビ、不幸なクマ、生きている間にめずらしい足になってしまったのかもしれないし、そうではないかもしれないが、そうしたかわいそうなサルや、ぎゅうぎゅうずめの動物たちをみた。自分のひざにいる二匹のマーモットはある女の子の子孫だと強調する若いきれいな女興行師は、反面ではあつかましいサギ師でもあった。「さあさ、みてごらん」、彼女はその生き物をコンデスミルクで養ったといって詐欺行為をうまくごまかした。
これらのエリザベス朝時代の情景の中から宿にもどったときに、私は群衆の中でちょうちんを持ちめがねをかけた警官が私を先導してくれていたのに気がついた。私が説明しておいたとおり、大通での屋台の劇はよどおし続いていたが、逮捕されたのはそれでも一人であった。その逮捕者は、自分では新聞記者だと言っていたが売薬人であることがわかった。彼は大酒のみであった。私はのんだくれたちが正気になるまで入れられる、きれいな木造りの独房を見にいった。それにはとても低い戸がついていた。それは罪人たちがわざわざひざをついて背をかがめて出入りするためであった。
私たちの祭りは朝六時に神社で行なわれる儀式に参加することから始まった。「多分もう特別製のげたをはいて参加する必要はないでしょうが」おかみが言った「もしあなたがしきたりを観察なさりたいのでしたら、早朝フロに入らないまま加わるのはおやめになった方がよいでしょう」。
昔の神社では、年間の行事に加わることになっている人々は神社に集うときには儀式用の衣装をつけた。ある男の人は古くからの髪型に結いあげた。古い楽器が奏でるものがなしい調べがすべての民衆に不思議なくらい共感を与えた。整然とした行列の先頭は神社の雑種の小馬であった。若者や女たちが米や野菜や魚や酒入った樋をかかげて歩いた。これらは神官が受けとった。彼は注意深く口と鼻の前に細長い布をあて、御神体に話しかけた。人はみな頭をさげていた。それから神官は神社のうす暗い内奥にその献げものをおいた。進行のすべてには明るい自然さがあった。はでな祭り用のはんてんをきた幾人かの子供たちが気ままに来拝者のあいだを走りまわっていたが、大人たちは笑顔でなすままにさせておいた。食物と酒が献げられて終りをむかえるし神社の中にいた神官は御神体にむかって二番目のメッセー ジを読み上げた。ふたたびみな頭を下げた。彼のか細い声は朝の静けさの中で聞えた。さえぎるものといえばただ、子供たちのさわぎ声、小鳥のさえずり、山々の青さにくらべ暗い杉をさらさらとわたる風だけであった。
儀式が終ると人々がもってきた食物や飲み物が神官たちや神官長の家の大広間で食い飲みされた。私たちはどぶろくと、死を思い出させるような小さなお菓子と乾し魚が与えられた。つい最近まで外国人がこのような儀式に加わることは歓迎されなかったにちがいない。私たちがすでにはっきりと言っているように、外国人から伝染病が広るおそれがあるといううわさが他県にまで広まっていた。今日その愛すべき神官は、しばらくの間私たちの手に六百年はたっているであろう小さな仏像をのせてくれた。
祭りの前、神官は八日間潔め(タブー)に入った。彼は喪中の人に会うことをさけ、食物は特に用意された火で調理された。彼は他の人に触れないように用心した。彼は毎日数回冷水浴をし、たくさんの祈りをした。祭りの当番がまわってきて神社に出むくべき共同体の家長もまた当然同じ潔めのいくつかを守るべきであるとみなされていた。それらの人々だけが父や母がそのようにして生きてきた神社で、神社の献げ物を作るであろう。以前は神社でのごはんやおみきととのえて献げる役はおごそかに若い女の子に与えられた。
この地方において、私たちが道徳的あるいは非物質的な発展に役立つ影響について討論したときに、誰もが学校を上げ、続いて家庭のしつけをあげた。世界の中のこの場所においてのみで佛教の僧侶はほとんどどうでもよかった。一方神道の神官は田畑で働いていた。意見を言うのにはうってつけの人が、賢くて人のよい巡査長が道徳上のよい影響を与えることが出来ると言った。ある人たちは公けの意見を良しとした。ある警官が言った。「人にとって第一のことは食料と着物を持つことだ。これが十分になければ道徳的になれといってみてもそれは無理というものだ」警察や校長の影響をよく考えてみると、利害関係を抜きにして、警察署長や学校長が同じ給料を受けていることの事実に興味をもたざるをえない。助教諭や平巡査たちもまた等しい。私は郡長のサラリーが一年でわずか二○○○円にすぎないことを知った。
私たちが通過していく県には三百六十以上の共同体があると言われた。信用 支店には二○○万円の資本があつた。購入購売で支店の取り引き高は三○○万円であった。飢饉のときには、つまり稲の生育温度が低すぎたり、作物をのみこんでしまうような洪水のときには、共同の力がその価値を証明する。太平洋に面している東京以北の県は飢饉の主要な犠牲者である。そのわけは仙台の近くで南から暖流がアメリカの方に向きをかえるからである。私は飢饉の結果、実際多くの人々が死ぬというのは「誇張されている」と聞かされた。一九○五年の数は「一○○人以下であった」。これらの不幸な人たちは幼児であり、また「栄養失調にみまわれた虚弱な人々」であった。年毎の鉄道と蒸気機関車の伝達手段の発達は飢饉の被害をこうむった人々の救出という課題をより容易なものにしている。昔、人々はお金をもっていても、それで食物を手に入れることができずにしばしば死んで発見された。日本は気候の異なる長い島なので、全部が欠乏することはない。
( 祇園祭屋台の解説 )
鉄道から五○マイルはなれたところの祭の山車
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます