会津田島の樋口弘一(還暦杉太郎)ブログ

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郷土の偉人 室井平蔵

2020-04-10 15:48:12 | 日記

明治から昭和初期にかけて活躍した郷土の偉人 室井平蔵について紹介します。 室井平蔵は幼名友平、父弥平・母きみの嫡子として出生したが、父の生家の相続人病死のために金井沢にもどり家を継いで名を平蔵と改めた。明治9年黒沢校に通うかたわら、平井近人に和学、渡部桃村(後の渡部南嶽)に画を学び、11年からは山林改正事業に従事した。12年2月に南会津郡役所に入り郡役所書記を勤め、22年には七郡連合の経費負担不当の行政訴訟を叔父彰を代人として起こし、勝訴となり郡長は免職となるが、この年上京して東京専門学校邦語政治学科に学んだ。明治30年5月から大正3年8月まで大蔵省理財局調査課に勤務、同年5月日本銀行調査局書記に転じ、昭和2年5月から再び大蔵省で『明治大正財政史』編纂に従事し、理数語学に通じ日本財政の至宝と評された。また職務のかたわら諸学の研究者と親交を深め、本地方の学術研究の指導亭立場にあって後学に強い影響を与えた。考古学方面では、武蔵野会において草創期から評議員を務めて鳥居龍蔵・大野雲外・白井光太郞・中山笑らと交流を深め、会主催の見学会の常連であり、大正8年から9年にかけて関東周辺の遺跡20ケ所余りを踏査し、帰郷の際の踏査と郷里の友人からの情報を得て稿本「福島縣南会津郡ニ於ケル土器・石器控」が成った。柳田国男との交流も深く、大新田や田辺原の十三塚の調査成果を柳田国男に送っており、堀一郎の『十三塚考』の口絵はその写真から描かれたスケッチである。考古・民俗の研究成果は、『考古学雑誌』・『集古会雑誌』・『武蔵野』等に投稿している。晩年永年蒐集した和算書をもとに「日本数学史」執筆に着手したが、昭和3年5月8日に63歳で没したために完成をみなかったのが残念である。『武蔵野』第十三巻第一号(昭和4年1月刊)に三輪善之助の死亡記事がある。これによると、追悼会は本郷区肴町清林寺で開催され田沼賴輔・大野雲外ら22名が参列した。記事中の「温厚篤実自ら奉ずること薄く、しかも他に施すことは厚かつた。殊に社会のため学術のためには随分費用を惜しまれなかつた」という賛辞はまさに室井平蔵の人柄を表している。

「福島縣南会津郡ニ於ケル石器・土器控」表紙

 

南会津町長野向遺跡出土土器片 室井平蔵が自ら踏査して採集したもの。土器裏面に、「金次茶屋 長野向 大正九年九月 石剣ヲモ発見」の墨書がある。縄文後期頃の遺跡で、大正初期耕作中に大量の土器片と共に石剣が出土している。

 【参考文献】  拙稿『田島町史』第10巻 人物編  『南会津郷土研究史』南山叢書第一集

 

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戦前の玄如踊りについて

2020-04-03 11:14:21 | 日記

会津では最も古い唄とされるのが「玄如節」です。喜多方図書館館長を勤めた新井円次は稿本「玄如節」に「一、総 説 会津俗謡トシテ其名高キハ、玄女節ナリ。歌詞ハ七七七五調ニシテ、曲節緩慢ニ長ク引ク。維新前後ニハ、領内各所ニ斯道ノ名手アリテ、鎮守祭及諸会式等ノ日ニ相会シテ、唄会ナルモノヲ催シタリ。斯道ノ達人ヲ「唄アゲ」ト称ス。而シテ其所ニ唄会催サルヽト聞ケバ、各所ノ唄アゲ連ハ集リ来り、唄ヒ合フナリ、此ノ唄会ノ特徴ハ、其ノ唄ノ即席自作ナルニアリ、掛合ナルコトニアリ、歌詞ノ掛ケ言葉ナルニアリ。即チ甲問ヒ、乙答ヒ、丙助ケテ終宥尽クルコトナク、以テ暁ニ至ルナリ。」と記している。現在も会津平野部「両堂」地区で行われる玄如節は往時のありさまを残していますが、実はこの唄には踊りが伴います。新井円次は稿本「玄如節」には戦前の玄如踊りの写真(新聞切り抜き)が挿入されており、当時の風俗が偲ばれます。

ほうかむりに襷姿(たすきすがた)で踊る様子が写っていますが、残念ながらこの踊りは今に伝えられていません。また戦前の絵葉書にも同様の写真がありますので、ここにアップします。

この写真の右側には「会津民謡会」の立看板が見えますので、山内磐水(やまのうちばんすい)主宰の民謡会の行事で踊られたことが判ります。当時の踊りが残されていないのが残念です。

  


地租改正大津絵節 歌詞

2020-04-01 16:10:01 | 日記

 明治政府は明治7年に租税制度の改革に着手しましたが、そのときの様子を「会津大津絵」の歌詞としてまとめたものです。大津絵節は関西の遊郭で流行し、江戸を経て会津に入ったのは幕末の頃だったと思われます。今では「会津大津絵」といえば白虎隊の歌詞でばかり唄っていますが、明治初期には三味線伴奏で「地名尽し」や「きのこ尽し」、「なし尽し」など洒落た文句で唄っていたようです。この史料はここ30年撮りためた写真の中にあったもので、今となっては何から撮ったものか残念ながら判りません。筆者所蔵室井平蔵筆「なし尽し大津絵節」の筆跡と酷似していますので、金井沢出身で当時金井沢地区の地租改正事務に従事していた室井平蔵と考えられます。地租改正は前後7年に亘り実地されますが、この歌詞の内容から、実際に着手した明治7年頃のものと考えられます。歌詞の最初に「文明開化のありがたさ」などと書いていますが、税率の高さから反対運動が起きて実際は紆余曲折をたどりました。

               「大津絵ふし」写真

                 釈 文

 

 


大正四年七月十九日記念 柳田国男・R・スコット・那須皓揮毫の扇面

2020-04-01 12:39:54 | 日記

大正四年七月に田島を訪れた柳田国男一行は田島祇園祭を見学し、南会津郡役所の二階で柳田国男の講演会があったことを永田の渡部又左右衛門は記念撮影写真の裏に記している。この写真に写っている今生の渡部又八(現当主渡部文一氏)宅にはこの時に柳田国男らが揮毫した扇面が残されています。この扇面には、「左側に、大正四年七月十九日 柳田国男 那須皓と記され、右側にはR・スコットの署名と聖書の一節がラテン語で記されています。ホ-ムペ-ジの写真が小さく読みにくいために、ここに再度アップしました。写真撮影を許可していただいた渡部文一氏に深謝の意を表します。

                全  面

                右部分

樋口弘一のホ-ムぺ-ジ                

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