明治から昭和初期にかけて活躍した郷土の偉人 室井平蔵について紹介します。 室井平蔵は幼名友平、父弥平・母きみの嫡子として出生したが、父の生家の相続人病死のために金井沢にもどり家を継いで名を平蔵と改めた。明治9年黒沢校に通うかたわら、平井近人に和学、渡部桃村(後の渡部南嶽)に画を学び、11年からは山林改正事業に従事した。12年2月に南会津郡役所に入り郡役所書記を勤め、22年には七郡連合の経費負担不当の行政訴訟を叔父彰を代人として起こし、勝訴となり郡長は免職となるが、この年上京して東京専門学校邦語政治学科に学んだ。明治30年5月から大正3年8月まで大蔵省理財局調査課に勤務、同年5月日本銀行調査局書記に転じ、昭和2年5月から再び大蔵省で『明治大正財政史』編纂に従事し、理数語学に通じ日本財政の至宝と評された。また職務のかたわら諸学の研究者と親交を深め、本地方の学術研究の指導亭立場にあって後学に強い影響を与えた。考古学方面では、武蔵野会において草創期から評議員を務めて鳥居龍蔵・大野雲外・白井光太郞・中山笑らと交流を深め、会主催の見学会の常連であり、大正8年から9年にかけて関東周辺の遺跡20ケ所余りを踏査し、帰郷の際の踏査と郷里の友人からの情報を得て稿本「福島縣南会津郡ニ於ケル土器・石器控」が成った。柳田国男との交流も深く、大新田や田辺原の十三塚の調査成果を柳田国男に送っており、堀一郎の『十三塚考』の口絵はその写真から描かれたスケッチである。考古・民俗の研究成果は、『考古学雑誌』・『集古会雑誌』・『武蔵野』等に投稿している。晩年永年蒐集した和算書をもとに「日本数学史」執筆に着手したが、昭和3年5月8日に63歳で没したために完成をみなかったのが残念である。『武蔵野』第十三巻第一号(昭和4年1月刊)に三輪善之助の死亡記事がある。これによると、追悼会は本郷区肴町清林寺で開催され田沼賴輔・大野雲外ら22名が参列した。記事中の「温厚篤実自ら奉ずること薄く、しかも他に施すことは厚かつた。殊に社会のため学術のためには随分費用を惜しまれなかつた」という賛辞はまさに室井平蔵の人柄を表している。
「福島縣南会津郡ニ於ケル石器・土器控」表紙
南会津町長野向遺跡出土土器片 室井平蔵が自ら踏査して採集したもの。土器裏面に、「金次茶屋 長野向 大正九年九月 石剣ヲモ発見」の墨書がある。縄文後期頃の遺跡で、大正初期耕作中に大量の土器片と共に石剣が出土している。
【参考文献】 拙稿『田島町史』第10巻 人物編 『南会津郷土研究史』南山叢書第一集
樋口弘一のホ-ムぺ-ジ
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