長田幹彦は小説家ですが、新民謡のプロデューサーとしても良く知られています。ビクタ-レコ-ドが昭和9年に小唄勝太郎で発売した「会津磐梯山」も、長田幹彦のプロデュースによるものです。長田は新たに歌詞を追補して「小原庄助さん‥」の囃子も加えました。またそれまでは「会津盆踊り唄」と呼ばれていたものを、出だしの歌詞が「会津磐梯山は宝の山よ 笹に黄金がなり下がる」であったため、発売曲名を「会津磐梯山」としたそうです。俗に「かんしょ踊り」が現在の「会津磐梯山」になったというのも、越後の五ケ浜から来た油締め職人が唄い出したなどというのは誤りで、「会津磐梯山」の原型である江戸期の曲の譜面が武田忠一郎らによって残されています。( 譜面は日本民謡協会に保管されています。)
小唄勝太郎の曲が発売されるや全国で流行しましたが、地元会津では地元の盆踊りとは全く違うために、発売中止の声が上がったそうです。戦後の新聞記事によると、「会津の恩人小唄勝太郎」との見出しで、勝太郎を賞揚して会津に招くとの記事がみえます。先年京都の古書店から入手したこの短冊には、「風白き この夏草や 会津城 幹彦」とありますので、この時のものと考えられます。時は夏、鶴ケ城を訪れてみたら、夏草が茫々と繁っていたというところでしょうか。長田幹彦の年譜には会津訪問について記されてはいませんが、勝太郎と共に会津を訪れたのは間違いないようです。
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