18日午後2時46分。
あの地震からちょうど一週間。
被害の状況は明らかになって、地震や津波による犠牲者は1995年の阪神・淡路大震災の犠牲者数6434人を超えたと警察庁は発表した。
僕たちが一回鼓動している間にも、自衛隊によって救助されている人がいて、避難所に搬送中に亡くなる方がいて、避難者リストに家族の名前があることを願うひとがいる。
関東では不安からか、買いだめが深刻化している。
ガソリンも不足し、ガソリンスタンドには長蛇の列。
計画停電の影響で、首都圏の電車も運休・運行ダイヤルの変更などが目立つ。
円高も進み、先進七カ国財務相・中央銀行総裁会議(G7)は日本、米国、英国、カナダの通貨当局と欧州中央銀行(ECB)が協調して円売り・ドル買いの為替介入を行うことで合意した。
東京電力福島第一原子力発電所の事故の影響で、福島県や茨城県など周辺の自治体では、通常より高い放射線量の値が続いている。そのため、政府はある程度範囲を決め避難指示をしている。
この一瞬にも外国からの支援物資が届き、今回の地震のために結成された救助メンバーが被災地に向かっている。
今日から東京都はじめ、多くの都道府県で個人の物資提供の受付を始めた。
日本赤十字社、報道機関、企業などが募金を募り、国民が参加している。
海外では「Pray for Japan」の合言葉で、被災地の復興を願う人がたくさんいる。
外国で活躍しているスポーツ選手は億単位の援助金をおくることを決め、日本とは無縁のはずのチーム同士の対戦でも黙とうの時間が設けられたりしている。
この地震で、一日がわずかに縮んだ。
この地震で、多くの人が亡くなった。
この地震で、多くの人が家を無くした。
この地震で、多くの人が避難をよぎなくされた。
この地震で、多くの人が悲しみ、苦しんでいる。
この地震での被害ははかりしれない。
僕はこの地震の時、栃木県南部の児童厚生施設にいた。
初期微動を感じた人がいて、
「地震!?」
と言い出したのがことのはじめだった。
その後、人生で感じたことのない大きな地震が僕を襲った。
すぐに電気は消え、非常用電気がついた。
それでもゆれがおさまる気配はなく、僕たちはすぐ建物から出た。
外には施設にいた人がたくさんいた。
看板は大きく揺れ、折れかけていた。
施設のひとが携帯電話で地震情報を調べだした。
その施設にいたのは「職業体験」中だったからだ。
自分を入れて、10人が同じ学校からその施設に行っていた。
10分ほどたって、奇跡的に施設の人と学校関係者に連絡がついた。
親の迎えがあれば、帰宅していいという指示だった。
学校が原則携帯持ち込み禁止だったので、10人は誰一人携帯を持っていなかった。
施設の人が僕たちの親の携帯に電話をかけだして30分ほどたつと、僕ともう一人の男子は連絡がついたという。
もう一人の男子は施設の近くに住んでいたので、親が自転車で迎えに来た。
自転車じゃ意味ないだろと思いながらも、その嘆きは雰囲気に飲み込まれた。
どうしても連絡がつかない8人は一回学校に待機ということだったので、施設の人の車に乗せられていった。
これはあとから友達に聞いた話だが、学校には7時すぎまで、親が来るのを待っていた生徒もいたらしい。
僕はその施設の隣町に住んでいた。
いつもなら車で30分程度だ。
だが、施設の人が8人を送ってきて
「信号が1個もついてなくて危なっかしい」
と言っていたので、親が30分で来ることは無理だと容易に想像がついた。
最終的に親は1時間半かけて施設まで来た。
親の車に乗り、車は県道をずっと走って行った。
施設の人の話は本当で、自宅まで1個も信号はついていなかった。
大きな交差点には警察官が立っていて、大学や高校が近い所では教師と思われる人も立っていた。
やっと家についたと思っても、停電していたのでテレビがつかない。
まったく状況がつかめない。
iPodでAMラジオは聴けるので、TokyoFMをその日はずっと聴いていた。
翌朝。
6時半には電気が復活したらしい。
テレビをつけると、悲惨な映像が流れていた。
津波に町が飲み込まれていた。
家が流され、パチンコ店の看板に家の残骸や車がぶつかっていった。
ただ呆然とテレビを見つめることしか出来なかった。
今もそうだ。
募金と支援物資を送ることしかできない。
今更、自分が無力だということを実感した。
ただ祈るしかできない。
そんな自分に腹が立った。