迷走は一本だけであったようだ。『その一人』は後年の情痴作家の片鱗が見える一本に仕上がっている。我らが近松秋江が帰ってきた。
物語は回想形式で書かれており、十五の時、家には二十五になる『おみね』という女中がいた。
その思い出話。
おみねは綺麗な女で、なまめかしい身体をしていた。悶々とする秋江。
隣の部屋から声が漏れる。二歳上の兄の声だ。おみねにちょっかいをかけているらしい。
「お母様に申し上げますよ」
「構わない」
兄も若い女との生活に悶々としていたようだ。手を握ったのかどうなのか、少なくとも自分より前進している事を知り、驚く秋江。
秋江もおみねに近付きたい。接吻したい。
その後、立ち聞きの際『小さい若様はそんな馬鹿なことはちっともなさらないじゃないですか』というおみねの発言。
その発言が嬉しいやら悲しいやら、それがストッパーとなり、行動に移せない。
ただ兄を妬み、真面目な小さい若様を演じ続ける苦悩。
というごく短い作品。やはりこの様に己の性に向かって心情を吐露する。
こうでなければならない。
情痴私小説作家、近松秋江に近付きつつある小編であった。