原周成の下町人情話

錦糸町駅南口の「下町の太陽法律事務所」の所長弁護士が人情あふれる下町での日常をつづる

下町の名所旧跡を訪ねて第19回「古民家シリーズ(1)」

2013年12月31日 | 下町散歩
 都内にも、かって江戸の近郊農村であった地域にいくつかの古民家が残されています。これから3回に分けて、下町地域の古民家を訪ねます。 第1回目の今回は、江戸川区の一之江名主屋敷を取り上げます。都営新宿線瑞江駅から徒歩15分位、新中川に架かる新椿橋の近くに一之江名主屋敷があります。この屋敷は、北と西に屋敷林を持ち、堀をめぐらした中世土豪風の屋敷構えです。







 江戸初期からの姿をそのまま伝えるものとして、都内23区では唯一の遺構です。もっとも現在の主屋は安永年間(1772年~1780年)に建て替えられたものです。関ヶ原の戦いで豊臣方として参戦、関東に下り当地の開発に当たった田島図書が初代と言われ、田島家が代々名主を務めてきました。この屋敷は、永らく田島家の努力で保存されてきましたが、2011年9月、江戸川区の所有となりました。長屋門を入ると、茅葺き屋根で曲がり屋造りの主屋が見えてきます。





 田島家の生業は農業でしたが、名主としての公的役割を果たすため、主屋の南側は公的な空間になっていました。 玄関は17世紀初めに武家屋敷の入り口として発達したと言われています。内部を土間でなく、段の下に低い板張りの縁を設けたものを式台と言い、この屋敷の玄関は式台となっています。



他方、北側は生活空間になっており、一階の天井には水害時の救難用の舟が載っています。





入館料100円で、小1時間たっぷり名主屋敷を味わって帰路につきました。
新椿橋から振り返ると、名主屋敷を囲む森がこんもりと繁り、「何かある。何だろう。」と思わせる謎めいた雰囲気を醸し出していました。


下町の名所旧跡を訪ねて第18回「稙髪聖徳太子像を求めて(3)」

2013年12月06日 | 下町散歩

 稙髪聖徳太子像とは全く関係のない話で恐縮ですが、「東京風土記」の中に亀戸天祖神社の境内の大平塚は古墳で、縄文式土器が出土しているとの記載がありました。
「あの亀戸天祖神社の境内に縄文式土器が出土した古墳がある」との記載を目にしては、その真偽を確かめないわけにはいきません。
11月の休日、再び亀戸天祖神社を訪ねました。
いくら境内を探してもそれらしい痕跡はありませんので、田中宮司にお聞きしようと社務所を訪ねてみました。あいにく宮司は不在でしたが、ご母堂と弟さんが私の相手をしてくれました。
ご母堂は、「当神社の氏子には墨田区太平居住の皆様が多いから、太平塚というと何か当神社と関係がありそうにも見えます。しかし、私が当神社に嫁に来たのは昭和32年ですから、古墳があったというなら気が付かない筈がありません。矢張り、その記載は何かの間違えではないでしょうか。」と気の毒そうに話してくれました。
ついでに、「当神社の近くにかって入神明宮という神社がありましたが、亀戸香取神社に統合されてしまいました。その跡地には町会会館が建てられています。」とのお話もしてくれました。



 そして、この辺りの道路はくねくね曲がりくねって分かりにくいから、と宮司の弟さんが町会会館まで案内してくれました。
入神明宮跡地には江東区教育委員会の次のような説明版がありました。
「入神明宮は、小高く盛り上がった塚の上に建てられた神社でした。・・・神木の榎は枯れた時に『天下太平』の文字の虫食いが生じたので太平榎と称し・・・明治40年(1907年)、このあたりから中世初期の漁網のおもり『土埵』が発見された。・・・明治に入って天祖神社と改称しながらも永く当地に祀られていましたが、昭和62年(1987年)香取神社に合祀されました。」



  亀戸天祖神社の住居表示が亀戸3丁目38番で、入神明宮跡地のそれが亀戸3丁目41番であることや「小高く盛り上がった塚」「中世初期」「土堹」「天祖神社」といった言葉を繋ぎ合せてみると、太平塚古墳のあった場所は、入神明宮跡地であった可能性があります。しかし、断定するためにはもう少し調査が必要かと思われます。何かご存じの方がおられればご教示ください。