原周成の下町人情話

錦糸町駅南口の「下町の太陽法律事務所」の所長弁護士が人情あふれる下町での日常をつづる

下町の名所旧跡を訪ねて第29回「隅田川七福神めぐり(8)」

2014年04月19日 | 下町散歩
  弘福寺を南へ徒歩2~3分で最後の三囲神社に着きます。同神社が文和年間(1353~1356年)近江三井寺の僧 源慶による再興が実質的な創建とされていること、及び、その名の由来は、本ブログ第14回で述べた通りです。
 社殿は、安政の大地震後の文久2年(1862年)大工平野忠八によって再建され、関東大震災、戦災をも免れた貴重な 建物で、江戸末期の様式を見ることができると言われています。
    
  境内には年輪を重ねた石造物とりわけ著名な石碑が多く設置されており、本ブログ第14回で述べた其角の句碑以外に も、三井家から奉納された延亨2年(1745年)奉納の石造狛犬、寛政11年(1799年)4月の銘がある一対の石 造常夜灯、享和2年(1802年)12月奉納の石造神狐などがあります。
   
  中でも是非紹介しておきたいのは、境内の南西端、恵比寿大国神祠の南の高さ152センチ、幅142センチの「一勇 斎歌川先生墓表」です。一勇斎歌川と言われて分からなくても、歌川国芳と言えばお分かりの方もいるでしょう。「通俗 水滸伝豪傑百八人一個」の連作で武者絵の第一人者と言われ、風刺画、擬人画、風景画、肉筆画などあらゆる分野で高い 水準の作品を残した浮世絵師で、近年の研究では北斎と並ぶ浮世絵師としての評価が高まっております。
   
  次いで大鳥居も紹介しておかなければなりません。徳川吉宗の時代に治水のため中州を取り払って土手を盛り上げたた め、下流から船で来ると鳥居がまるで土手に突き刺さったように見えたことから「土手下鳥居」とか「せり出し鳥居」な どと言われ、見えそうで見えないことから男女の心の動揺の比喩にも用いられて、小説・小唄・川柳などにも登場しました。安政の大地震で倒壊し、久2年(1862年)三井家によって再建されました。
   
  最後に隅田川七福神の掉尾を飾る恵比寿様、大国様に触れなければなりません。恵比寿は漁業の神様、大国は農業の神 様とされますが、この二神、商売繁盛の神様として一組で祀られることが多いようです。三囲神社の二神は、いずれも像 高18センチ、享保年間(1716~1736年)、三井高房によって寄進された古木を削って作った小さな素朴なお像 で、ここにも三井家の存在が見てとれます。

  

下町の名所旧跡を訪ねて第28回「隅田川七福神めぐり(7)」

2014年04月08日 | 下町散歩
 
 長命寺の南隣が弘福寺です。京都宇治の黄檗宗萬福寺の末寺で、江戸期には関東黄檗四刹の一つとして知られました。延宝元年(1673年)小田原藩稲葉正則が開基し、鉄牛禅師を開山に迎えて現在地に移って堂宇を建てたと言われており、江戸名所図会でも紹介されています。
  

 安政の大地震、関東大震災の2度の震災によって被災し、昭和8年(1933年)、現在の山門、鐘楼、方丈、客殿、庫裏とともに大雄宝殿が再建されました。
 
 
 このように弘福寺は度重なる震災で創建当時を偲ばせるものは少なくなっておりますが、銅製の梵鐘は希少文化財となっております。銘文によれば、貞亨5年(1688年)に製作されたことが分かります。江戸期には3万に及ぶ梵鐘が製作されましたが、現在確認されているところでは、墨田区内の寺院が所有する梵鐘の中で最古のものと言われています。
 
 さて、肝心な布袋様です。
 向島百花園に集った文人達は、弘福寺には布袋和尚の木像があるとして、この和尚を七福神に加えました。
しかし、大雄宝殿に安置されている布袋様は座高40センチの銅造布袋尊坐像です。大倉喜八郎がインドから取り寄せたものを寺に寄進したものですので、
 当初の布袋様ではありません。布袋様は唐代の実在の禅僧で、常に布の大きな袋を持ち歩き、困窮の人に遭えば惜しげもなく財物を施し、その中身は尽きるところがなかったと言われています。真の幸せとは欲望を満たすことではないことを身をもって示し、世人の尊敬を受けました。この坐像は些か金満家風気の雰囲気がしなくもありません。お寺の表看板ゆえ磨き挙げているだけのことなのかもしれませんが、布袋様は、内心「俺は金持ちとは正反対の生活をしてきたんだけどな」と困ったお顔をされているのではないでしょうか。