原周成の下町人情話

錦糸町駅南口の「下町の太陽法律事務所」の所長弁護士が人情あふれる下町での日常をつづる

下町の名所旧跡を訪ねて第27回「隅田川七福神めぐり(6)」

2014年03月30日 | 下町散歩

  向島百花園から水戸街道に出て、南下すること15分程で長命寺に到着します。長命寺は元和元年(1615年)頃の 創建と伝えられ、元は常泉院と号していました。寛永年間(1624~1644年)三代将軍家光が鷹狩に訪れた際に体 調を崩して同寺に休息し、境内の井戸水を汲んで薬を服用したところ、たちどころに痛みが消えて快癒したため、家光が その井戸を長命水と命名し、寺号を長命寺と改めたと言われています。


  このような長命寺の由来を記しているのが「長命水石碑」です。


  長命寺は、境内に名碑が多いことでも有名です。その中から二つだけ紹介します。
  江戸時代長命寺は雪見の名所として知られ、多くの人が雪見に訪れました。
  そこで芭蕉の雪見の句碑を一つ。
  「いざさらば雪見にころぶ所まで」
  但し、この句、名古屋の書店風月堂で吟じたと言われています。


  もう一つは「五狂歌師辞世の句連碑」という面白い石碑。その中から十返舎一九の辞世を紹介します。
  「此世をばどりやお暇にせんこうの 煙と共にはい左様なら」



  長命寺と言えば「長命寺桜もち」に触れないわけにはいきません。
 長命寺の門番であった山本新六が、享保3年(1717年)、墨堤の桜の葉を利用した桜餅を思いついて作り出したもの と言われています。桜もち屋山本屋は明治21年(1888年)頃、正岡子規が下宿していたことでも有名です。

  さて肝心な弁財天です。
  像高18センチ、琵琶湖竹生島の宝厳寺の像を勧請したもので、最澄の作と伝えられています。


下町の名所旧跡を訪ねて第26回「隅田川七福神めぐり(5)」

2014年03月25日 | 下町散歩
  白髭神社から徒歩5分程で、向島百花園に着きます。文化4年(1804年)骨董屋として財を成した佐原鞠塢(きく う)によって造園されました。かねて付き合いのあった文人達から寄贈された梅樹360株を植えて梅園とし、亀戸の梅 屋敷に対して新梅屋敷として知られるようになっていきました。

  池波正太郎の剣客商売二の「不二楼・欄の間」の章に、主人公秋山小兵衛が四谷の御用聞き「弥七」と、かねてなじみ の浅草・橋場の料亭「不二楼」の淡い夕闇漂う庭先を見ながら「見よ、弥七。梅は百花に先駆けて咲くが、それだけに、 また、得もいわれぬ気品があるのう」「ははあ・・・・」「春もやや、けしきととのう月と梅・・・こんな句を聞いたこ とがある。むかしの、何とやらという俳人の句じゃというが・・・」「風流なことで」といった会話を交わすシーンがあ ります(文庫本295ページ)。この会話に出てくる「何とやらの俳人」芭蕉の句碑がここにあり、「春もやや けしき ととのう 月と梅」と読めます。
  
  新梅屋敷と呼ばれるようになって以後、各地の名花名草が集められ、次第に百花園と呼ばれるようになってきました。 江戸名所図会からも、その賑わいぶりがうかがわれます。
  

  今に残る東京の名園は,その殆どが大名藩邸ですが、ここは町人文化の粋と隅田川情緒が結実したところに特色があり ます。とはいえ、この百花園も明治以降周辺地域の近代化や度重なる洪水により荒れ果てていたと言われています。19 39年(昭和14年)東京市に譲渡され、現在は史跡に指定されております。
 栞門の「花屋敷」の額は太田南畝揮毫の額を複製したものです。
     

     
  尊像は、佐原鞠塢遺愛の像高35センチの陶製福禄寿坐像です。東京大空襲の際にも、この像だけは焼け残ったといい ます。
      
  向島百花園は秋の七草その他秋の花の美しさで知られています。ぜひ秋の七草の季節に訪ねたいものです。