芥川龍之介(1892~1927年)は、生後9か月で生母の実家本所小泉町(現両国3丁目)の芥川家に引き取られ 、旧制一高に入学した1910年(明治43年)一家を挙げて内藤新宿に移るまで、そこで生活しました。その場 所に は標識が残されています。
芥川は、その自伝的小説で彼が育った町を次のように描写しています。
「大道寺信輔の生まれたのは本所の回向院の近所だった。彼の記憶に残っているものに美しい町は一つもなかった。美し い家も一つもなかった。殊に彼の家のまわりは穴蔵大工だの駄菓子屋だの古道具屋だのばかりだった。それ等の家々に面 した道も泥濘の絶えたことは一度もなかった。おまけに又その道の突き当りはお竹倉の大溝だった。南京藻の浮かんだ大 溝はいつも悪臭を放っていた。」(芥川龍之介「大道寺信輔の半生」)
私が少年時代を過ごした昭和30~40年代の回向院周辺も、残念ながら美しい町ではありませんでした。流石に泥濘 に足を取られるようなことはありませんでしたが。
諸宗山無縁寺回向院は、将軍徳川家綱の命によって振袖火事で知られる明暦の大火(1657年)の焼死者108,0 00人を葬った万人塚が、その起源とされています。
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回向院周辺は、昔から中小企業の多い街ですが、ポツポツと高層ビルの目立つ半都会的地域になりつつあります。今で は、そんな地域に高層ビルに囲まれるようにひっそりと佇んでいます。
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以来、安政大地震の被災者だけでなく水死者・焼死者・死刑者等の横死者までも宗派に無関係に供養してきました。一 番有名な墓が鼠小僧次郎吉のものです。長年捕まらなかった幸運にあやかろうと墓石を欠き取る参拝者が絶えず、欠き取 り用の墓石まで設けられています。私が取材に訪れた際も若い女性が一生懸命墓石を削っていました。
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また、この境内は4代将軍家綱の愛馬供養に始まる馬頭観音堂をはじめ各種のペットの供養施設があることでも有 名です。
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この境内では、1781年(天明元年)以降、勧進相撲が興行されるようになりました。これが今日の大相撲の起 源になっており、回向院は大相撲発祥の地でもあるのです。そんな縁で1936年(昭和11年)、相撲協会により 物故力士や年寄の霊を祀る「力士塚」が建立されています。