「許す」とは、人間が持っている苦悩の中で最大のテーマなのでないでしょうか?
世の中の人との間のトラブルは、ほぼこの「許せない」が起因してトラブルが発生してますね。
キリスト教でもやはり赦し、が最大の課題であるかと思います。
* 許せない=恨む=憎む= 責める-----> 罪に問う になるかとの解釈もできます。
誰かを憎むことはいけないこと、許さなくては・・ と真面目な信心深いあなたなら思い、でもできない自分にジレンマを覚えるかもしれません。当然です、許すことなんて口では言ってもそうそうできないのです、簡単に出来たら聖人か、スヌーピーです
さておき、クリスチャンとして聖書の福音の例えをひとつ、<罪を許された女 /ヨハネ8章1~11> (長いですが最後までお読みください)
光を持つ者 1-12
イエスはオリーブ山に行かれた。そして朝早くイエスはもう一度宮にはいられた。民衆は皆、御元にとに寄って来た。イエスは座って彼らに教え始められた。すると律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕えられたひとりの女を連れて来て真中に置いてからイエスに言った。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」彼らはイエスを試してこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。
姦淫(売春/不貞行為などユダヤ教では十戒に入る重い罪)の罪を犯した女が、その現場で捕らえられ、イエスのところに引きずり込まれてきました。そして、モーセは石打ちにすべきと言っているが、あなたはどうするのかと言っています。モーセは神の預言者であるから、もしイエスがモーセと違ったことをするのであればイエスは偽預言者、偽メシヤということになります。イエスの敵である彼らでさえイエスが恵みとまことに満ち罪人を受け入れ、弱った者を助け、汚れた者に触れられることを知っていました。だからこの女も受け入れるに違いない、そうすればモーセの律法にしたがってイエスを捕らえることができると思ったのです。
しかしイエスは身をかがめて指で地面に書いておられた。けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。
「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」
罪のない者とは、罪を犯したことがない者ということです。イエスはここで、この女が石打ちの刑になるべきであることを否定されていません。
むしろ「彼女に石を投げなさい。」と命じておられます。そうです、彼女は死に値する罪を犯したのです。けれどもイエスは同時にあなたたちは石打ちの刑を受けなければいけませんね、と暗に示されています。罪を犯せば、モーセの律法によれば死刑です。彼らも殺されなければならないのです
そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。彼らはそれを聞くと年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行きイエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。
イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ、あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」彼女は言った。「主よ、誰も」そこでイエスは言われた「私もあなたを罪に定めない、行きなさい。今からは決して罪を犯してはならない。」
唯一、石を投げる権利をもっておられる方がこの権利を放棄しました。なぜなら、御子は世を裁くために来られたのではなく世を救うために来られたからです。「この憐れみと恵みに触れた時私たちは初めて、悔い改めて、主を恐れ、罪を憎む歩みを始めることができるのです。
イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」
ちょっと硬い福音でしたが、例えば今世間で話題になっている数々の不倫騒動などありこの話に似た出来事ですが、罪にもいろんな段階があり、もちろんそう簡単には許されない罪(裁かれるべき罪)もあるが、
この福音に似ている事例、ベッキーを思い出し、この姦通の女同様十分悔い改めているかと見受けられますので、彼女に限っては
キリスト教においてイエスの名の元には許された、とされると思います。
<祈りの言葉/主の祈りより>
私達も人を赦します、私達を誘惑に陥らせず、悪からお救いください。アーメン