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舟山号は威海衛牙石島で沈没

2024-02-20 18:09:00 | 中日友好
中国歴史写真のサイトには難破船を含む車種が多く掲載されている。


中国の歴史写真のサイトで、我々が出版の準備を進めている一連の写真には、1932年10月初旬に威海衛付近で沈没した太古輪船公司(China Navigation Company,つまりCNCo)の「舟山」号(S.S.Chusan)が被災した結果を示す何枚かがある。これらの写真はF.Haggerのアルバム由来である。それらとサイト上のそのほかの画像や資料と関連図蹴る事ができる(例えば、中国輪船公司会長のWarren Swireが写し次の写真など)。




天津に停泊中の「舟山」号。撮影者:G.Warren Swire.HPC番号:Sw06-028。
1914年、「舟山」号はスコッツ造船エンジニアアリング会社(Scotts Shipbuilding&Engineering Co.)によってスコットランドのグリーノック(Greenock)で建造された(スコッツ造船会社と太古輪船公司の利益は折半であった)。中国では太古輪船公司(CNCo)と太古公司の子会社太古洋行(Butterfield & Swire)が管理した。1932年10月2日から3日にかけての夜に、煙台から上海へ向かう途中に、「舟山」号は座礁して、半月湾付近の外洋の岩礁上に挟まった。


1932年環翆楼(F.Hagger)

1932年の、中国沿海の海難事故は、当時中国税関が灯台ネットワークを発達させていた19世紀に比べて少なくなっていたが、それでも海難事故は発生していた。
事故の正確な原因については、当時の新聞報道でははっきりしていないが、おそらく「舟山」号は浅瀬に座礁したものと考えられる。船長(George Alfred Evans)は当社で12年務めたベテランで、彼は過失を認めてすぐさま解雇されたが、経営責任者は昇進している。



『北華捷報(The North China Herald)』1932年10月12日が示した「舟山」号の座礁位置である。
事故発生当時「舟山」号には、大部分が中国人である百人余りの乗客と船員がいた。イギリス海軍の軍艦ケント号(HMD Kent)とメドウェイ号(HMS Medway)が援助を提供したが、この両軍艦の誰かが、またはF.Hagger本人が当時の情景を撮影したと言われている。この二隻の軍艦は「舟山」号のS.O.S.救難信号を傍受し、乗客の救援に到着した。乗客達は威海衛に送られ、その後「順天(Shuntien)」号汽船で送られて、10月6日に上海へ到着した。乗客を救出した後、船上の貨物を引き上げることに集中した。報告書によれば、およそ100個の荷物が引き上げられた。船員は10月4日に瀬に救い上げられ、乗客と一緒に威海衛に移送され、その後「通州」号(S.s.Tungchow)号汽船に登場して上海へ向かった。「舟山」号同様に「順天」号と「通州」号もスコッツ造船会社が建造された太古輪船公司(CNCo)の汽船であったが,この二艘はその後数年で運営を停止した。
救助活動に参加した船舶は、20世紀初頭の中国の航海の国際化を証明しました。この時期、外国、商業、及び民族主義の利益が頻繁に競合しましたが、時折協力も行われました。『北華捷報』によると、英国海軍は2隻の軍艦に加えて、St Breockという曳船を派遣し、「船には潜水員や大工がおり、救助活動を支援するためにケーブル、木材,及びその他に必要な器具が備えられていた」報じられています。日本の船舶である「大連丸」と「友正丸」は、それぞれ日本の占領地である満州と日本の門司から派遣され、救助活動に協力しました。
『北華捷報』と『大陸報』は、日本の曳船がほぼ超人的な努力で、一隻の船を島の外に曳航し、「舟山号」の乗組員と1人の軍人、合計約17人を救出したことを報じています。これらの日本の船舶が「舟山号」を支援する一方で、中日の緊張状況は他の場所でも醸成されていました。1932年初め、上海、つまり「舟山号」の目的地では軍事衝突が発生しました。興味深いことに、この船の遭遇に関する最初の報道の一つが『大陸報』の一面トップで、「リットン報告が中国の主権を認める」という見出しで掲載されました。これは「満州危機」の重大な進展であり、最終的には日本が1933年に国際連盟を脱退する原因となりました。戦時中の平和は脆弱であり、「舟山号」と同様に危機に頻していました。
悪天候は救助作業に困難をもたらしました。10月4日までに、「船の前半部分は既に波によって切断され、デッキは部分的に浸水していました」。数日後、「舟山号」は「全損廃棄」と報告されました。『北華捷報』は10月19日の新聞に、船が沈んでいく過程を示す3枚の写真を掲載しました。

威海衛付近の沈没船事故,『北華捷報』
1932年10月19日
F.Haggerのコレクションには、異なる角度から撮影された4枚の救助作業の写真も含まれており、これらの写真は船の沈没の印象的異なる段階を間近で見ることができます、最後の写真は、最初の写真の3日後に撮影され、水面に残っているごく僅かな残骸しか見えません。航海史の研究者はこれらの写真に興味を持つかもしれませんし、同様の出来事を歴史小説で再現したい人3日、ここで現場写真を参考にすることができます。
私がこの写真を初めて見た時、それはまるで映画のようなスタイルを持っているため、私の注意を引きました:船の沈没の過程が段階的に描写され、最初の印象(船の大部分がまだ水面にある)から最後のシーン(船のほとんどが海に飲み込まれ、船体の小さな部分しか見えない)までが示されています。
これらの写真は共に劇的な物語を語っています。この事件に関する幾つかの情報を検索した後、写真には示されていない内容がより印象的であることに気付きました。これらの写真には船上の乗客が(少なくとも近くで)見えないため、船とは異なり、彼らは全員生き残りました。
2020年に1932年をニュース記事を読む読者にとって、他の興味深い詳細は想像に頼るしかありません。最初に現場に派遣された潜水員、大量の貨物現場運び出されたこと、救助作業に参加した複数の船舶などが上げられますが、これらの詳細は写真にはほとんど登場しません。

威海衛「舟山」号沈没船。HPC編号:FH01-143

威海衛「舟山」号沈没船。HPC編号:FH01-144.



威海衛「舟山」号沈没船➖船首,三日後。HPC編号:FH01-145



威海衛:「舟山」号沈没船➖船尾,三日後。HPC:FH01-146.
もし、事故後、人々はこの名前の連想が不吉であると考え、太航運公司(CNCo)は新しい船のどれもを「舟山」と命名しませんでした。しかし、1948年、P&Oの会長であるJ.K.Swiretingsは、彼が英国と東アジアの航路に新しい客船を建造する計画で「舟山(Chusan)」という名前を使用することを計画しており、これに非常に腹を立てました。それにも関わらず、既にこの船名の2隻の客船を所有していたP&Oは、1950年6月に第3のSSCHusanを受けとりました。英国太古集団の歴史と中国での関与に関する更なる情報を知りたい方は、最近出版された書籍『China Bound: John Swire & Sons and its World,1916-1980』をご参照してください。


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