なんか小難しいことを考えるやっちゃな、マーシャ。。
以前ボランティアをしてみて、振り返った時、
そんな声が聞こえそうですが
よかったらお付き合いください。
『自分は善意と思ってやってはみたが果たして本当にそうだったのか?』
と自答したことがあります。
特に考えたのは、
・相手に伝えた善意に偽りはなかったか?
・ボランティアを始めた動機にいつわりはなかっか?
です。
前者はボランティアで関わった方々に対する自分自身の判断行いが、その人、その時、その場に置いて、ベターであっても、その後に悪い影響を与えないか?
と言った、相手への善意の渡し方。
後者は自信の問題、善意の行動の動機が、自己満足やエゴでなく、他者への奉仕を純粋に考えたものだったか?
と言ったことです。
今回お話しするのは、後者、自身のエゴと善意のお話。
2018年、ゴスペル好きが興じて、教会やクリスチャンの方々と色々聖書について語りあった時のお題から紹介します。
聖書 ルカ15章 11-32のお話
ん?いきなり聖書!?
いや、構えないでください(^^)
聖書自体は、世界中で最も読まれてる本ってだけなので。。
もちろん信仰の原点でもありますが、当時を生きた人々のエピソードや出来事も書いてあって、今にも通じるような話題もあったりするので、本屋さんで手にとって見てくださいね
で、ルカの福音書15章 11説から始まるお話です。
とある父、兄、弟の話です。
ある日、弟は自分に分け与えられる予定の財産を先に欲しい、とせがみます。
(いきなりですね。。)
そして、その財産をもらい出て行ってしまいます。
(激しいっすね〜。。)
が、程なく、全部使い果たし、落ちぶれてしまいます。
(うーんなんか想像つくね〜。。)
また飢饉もあって、食べ物もなく、与えてくれる人もなく、生きる気力もなくなるほど消沈した時、心から自分の行なった過ちに気づき、家族の縁を切って、雇人としてでも良いから、父の元に置かせてほしい、と心からの謝罪のため、自分の過ちを許してもらえないかも。。と思いながらも父の元に帰ります。
(そんな罰当たりしたら許されるわけないやろ〜。そんなん人生甘ないでぇ)
しかしそんな弟を父は喜んで宴までして迎え入れるのです。
(え〜ちょっとは叱るとか、うちの敷居跨ぐなとか、エグい方に行かへんの〜!?とーちゃんえ〜人すぎやん!)
と、(心の中)は小市民なオイラの心のつぶやき。。
と、なんかベタな呟きでした
ここまでの下りを読むと、この父は、弟の罪を赦し、迎え入れるかみさまのような存在。
弟はかみさまから離れたぼくたち。その関係を描いているように見えます。
しかしこのあとちょっと続きがあります。
兄はどうであったか?です。
後編へ続く。