石ノ森章太郎のアニメがヤフーの動画に上がっていたので、ものすごく久しぶりに(40年ぶり?)「レインボー戦隊ロビン」を見たんですが、あまりに懐かしくて、ウイキでちょっとその当時のスタッフさんとか見てみたら……
椋尾篁さんの名前を見つけたんですけど。
1992年、58歳で死去。
え、ええ、ええええ、………知らなかった。
好きだったんですよね。彼の描く背景というか、美術センスというか。でも、確かに、だいぶ前から名前が出ないなあとは思っていたんですよ。
アニメからだいぶ離れていた時期もあったから、彼の死についてはまったく知らなくて。
愕然。
そうか、そうなのか。あの才能が失われたのか…。
すごくびっくりしたのと同時に、なんというか脱力。
息子に言っても通じないはずだ。
彼はもうとうに亡くなっていたのだから…。
一番、すごいなあと思ったのは、『幻魔大戦』の映画での美術かなあ。当時、これほどのこだわりを持つ人ってないなあ、って思ったのを記憶してます。
そうか、そうなんだ。知らなくてごめんなさい。
なんていうか、自分の年を忘れて、先人ですごい人はいつまでも仙人のように存在しているものだって思っている節が私にはあるようです。
だって、偉大な人はいつまでも元気で活動していて欲しいじゃないですか。これは願望ですけどね。
記憶に残る人が実はもう亡くなっているってことに、自分の年を感じます。
しかし、椋尾さん亡くなるのハヤイヨ~。
偉大な人は、80、90、いいや100まで生きなきゃ。
アタシなんか、いつ死んでも大して困らないけどね。(これマジに思ってます。自虐意味じゃないです)
本当に必要とされている才能のある人が、亡くなるってのは、きついよなあ。
で、ちょっと思った。
人って、人の価値ってひょっとすると、後世の人の記憶にどれくらい記憶されるかってのが、凡非凡を分けるのかって。
アタシなんかせいぜい、息子の記憶に留まる時間がせいぜいだろうから。
死んでから、30年くらいかね。(息子は結婚するつもりないようだから、孫の記憶にも残らん可能性が……あるんだよね~)
ま、それで人のいい、悪いを判断するわけじゃないど。人なんて、そんなもんだよ。
私の哲学ではそう言ってる。
だからといって、生きることを否定するわけじゃ、もちろん、ない。
しかし、椋尾さんの死を知ったことは、けっこう、残念で。遅ればせながら、合掌。
しました…。