常々、動物に人間的な感情を求めるのは間違っていると思う時がある。
ペットと家畜との隔たりってのは、人間側の都合によってだけ発生する。
先日、狂犬予防注射を拒否する道東のある女性が飼っている100匹超の犬達の報道を見て、人ってのは、あまりにご都合主義だなあ、って思ったんだよね。
狂犬病って恐いよね。人が噛まれて感染したら、とんでもないって思う。もう日本では完璧に押さえ込んでいる病気だらか、必要ないってその女性は言うけど、つい、最近、ロシアの船に乗っていた犬が狂犬病だったっていう報道を記憶しているから、納得いかない。人の脅威になるものは、徹底的に押さえ込むことが人には必要だ。
犬と人間、どちらが大切なのか。
最近、どこかの犬が子供を襲ったって、報道があった。噛まれた子に何も落ち度はないように感じた。
でもね、飼っていた主にとっては、多分、挑発した子供が悪いって感情が少なからずあったように受け取れる。
なんかね、この頃のペットブームっておかしいなあと思ったりしたんで、ちょっと考えてみた。確かに飼っている動物には愛着がわくし、選別的な意識があるだろう。
でも、自然界では、どれほどの違いがあるのかな。
ペットを喰うのはものすごく抵抗があるが、家畜が肉となってスーパーに並んだら、もう、ただの食物になってしまうんだなあ。
韓国には犬を食す習慣があるそうで。その食文化をどうこう言う気はないが、結局、人間と動物にはそういう、埋められない溝があるんだよね。
犬は非常食品なんて思いながら飼っている人は今のこの日本にはいないだろ。でも、ひょっとしたら、家畜としての犬ってのも、あり得ない話じゃない。
ペットと家畜との間にある溝。
その溝をどう解釈するかだ。
どんな生物も生ある限りみだりにその命を奪ってはいけないとはわかる。けれど、動物に人間的な感情を投影することは無意味ではないか。
親が子を慈しむのは、本能であって、感情ではないから、動物の親が我が子を育て上げることに、ことさら愛情で云々ってのは、そぐわないのではないか。
人間はそういう本能が、というか、本来生物として持っていなければならない根本の所が、肥大した脳によって歪んでいる。だから、子を虐待したり、殺したり、親を手にかけたりする…って気がする。
生物の親が子を育むのは、ただ子を残すことが生物としてなすべき、種の保存の法則に則った行動なのだから、そこの人間的な「愛」を押し込むことは、おかしいんじゃないかな。
動物の愛情物語(?)のような話を扱ったテレビとか見ていたり、あたかも、その動物に愛があるように描いていたりすると、なんだか、変だよなあと思っている私がいる。確かにそういう姿は可愛いし、微笑ましいし、美しい。
でも、それは人間の側からの心の動きが投影されたに過ぎない。
肥大した人間の脳は、同じ生き物としての動物に、人間的感情を落とし込むのが好きなようだ。
肉になるべくして生まれてしまった家畜は、死して人の食物になる。
なのに、そうでない動物は、あたかも愛ある擬人的人として、茶の間の花形となる。
動物は、愛があるから子を育てるのではないよ。って所をきちんと人間は知るべきだと思ったりするんだが…。でないと、食せないでしょう。肉なんか。
人の愛の感情を動物に持ち込むことの愚かさってのを、自覚して欲しいものだと思ったりする。
食する動物に愛を感じながら、食するのはアリだけど。
愛というか感謝の気持ちかな。
食物連鎖の頂点に立つ人間。自分勝手に生物の選別をしていることにちゃんと気がついて、理解して、自らの生を得るために手を汚しているって、自覚して、肉を喰らって欲しいっと思ったりした。
あの女性のような意見を持って予防注射を受けさせない飼い主は案外いるそうで
すよ。ペットはも私たちを癒してくれる愛らしい存在ですが、畜生であることも念頭にいれておかないと…。
感謝ってとても奥の深い言葉ですねぇ。
なんというか、支離滅裂なことを書いていたのに、コメントありがとう。どうも酔っ払うと普段考えていることが、滑り出してくるんで、それにストップが効かなくて…。
いつか、誰かにどっかで攻撃されそうだなあ。今回は愛犬家とかに……。
犬を人間並みに扱うってのは、一見すると愛情のある行為に見えるけど、どっか違うような気がしていたんですよね。
でも私は動物嫌いではなくて、ものすごく好きで、飼いたいといつも思っているんですよ。なんか矛盾してますね。