理不尽。
この言葉は社会を垣間見て、一通りの成長を終えた大学生時代に、
ある種の怒りや諦めを持って
それでも声高に主張できたもので。
それはあの頃の私が理不尽であることにささやかな抵抗を示していた記憶なのだと思う。
いまは。
理不尽を理不尽と感じる前に毎日が過ぎていく。
違和感は違和感のままで、
いちいち突き詰めていたら日常の矛盾の中に閉じ込められてしまいそうで、
私の行動は私の信念やら個性やらを離れたところで回っていくから、
もう私の日々に「理」などないのだ。
そのことに気づいて理不尽と言えていたのも、もう遠くのことで、
理不尽が当たり前と言えることに社会性を見出だしさえしているのだから…
どこか腑に落ちないまま毎日が過ぎていく。
青い若い思想を、実はまだ持っていることを、
日常に晒さずにいること。
それが私の行動をどうにか私の理に結びつけることになるのではないか。
まだ青くさくいたい私を、私はひそかに肯定している。
理不尽を当たり前と諦めながら。
この言葉は社会を垣間見て、一通りの成長を終えた大学生時代に、
ある種の怒りや諦めを持って
それでも声高に主張できたもので。
それはあの頃の私が理不尽であることにささやかな抵抗を示していた記憶なのだと思う。
いまは。
理不尽を理不尽と感じる前に毎日が過ぎていく。
違和感は違和感のままで、
いちいち突き詰めていたら日常の矛盾の中に閉じ込められてしまいそうで、
私の行動は私の信念やら個性やらを離れたところで回っていくから、
もう私の日々に「理」などないのだ。
そのことに気づいて理不尽と言えていたのも、もう遠くのことで、
理不尽が当たり前と言えることに社会性を見出だしさえしているのだから…
どこか腑に落ちないまま毎日が過ぎていく。
青い若い思想を、実はまだ持っていることを、
日常に晒さずにいること。
それが私の行動をどうにか私の理に結びつけることになるのではないか。
まだ青くさくいたい私を、私はひそかに肯定している。
理不尽を当たり前と諦めながら。