NHK
昭和の映画の最盛期を支えた看板スターで、寡黙な男性を演じて、日本を代表する俳優として国際的に活躍した高倉健さんが今月10日、悪性リンパ腫のため東京都内の病院で亡くなりました。
83歳でした。
高倉さんは福岡県中間市に生まれ、明治大学を卒業したあと東映のニューフェイスにスカウトされ、昭和31年に俳優としてデビューしました。
昭和40年代、「網走番外地」や「昭和残侠伝」などのシリーズで、東映の任侠路線のスターとして爆発的な人気を得ました。
また映画の主題歌をみずから歌い、「網走番外地」や「唐獅子牡丹」は大ヒットしました。
昭和51年に東映を退社したあと、「幸福の黄色いハンカチ」で不器用な生き方しかできない刑務所帰りの男を演じ、国内のさまざまな映画賞で主演男優賞を受賞しました。
硬派でシリアスな演技を得意としているほか、コマーシャルで使われた「不器用ですから」のセリフが代名詞的な存在になるなど、謙虚な人柄が多くの人に共感を与え、男女の別や世代を超えて人気を博しました。
さらに、「ザ・ヤクザ」や「ブラックレイン」などハリウッドの映画にも出演したほか、平成11年に公開された「鉄道員」でモントリオール映画祭の主演男優賞を受賞するなど、国際的に知名度の高い日本を代表するスターとしても活躍してきました。
こうした功績が評価され、平成10年に紫綬褒章を受章したほか、平成18年には文化功労者、そして平成25年に文化勲章を受章しています。
高倉さんはおととし、降旗康男監督の映画「あなたへ」で、6年ぶりに映画に出演して注目されました。
所属事務所によりますと、高倉さんは次回作の準備の途中で体調を崩し、入院して治療を受けていたということですが、容体が急変し今月10日午前3時49分、東京都内の病院で悪性リンパ腫のため亡くなりました。
さすがの存在感と言っていいだろう。
ブラジル・ワールドカップ後は代表から遠ざかっていた遠藤は、アギーレ体制下で初招集されるとすぐさま先発出場を果たし、鮮やかなミドルシュートを叩き込んだ。
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今年6月のコスタリカ戦以来となるゴールにも、当の本人は「フリーだったので、とりあえず枠に飛ばそうと思った」と冷静に振り返る。
この日は、これまでの定位置だったボランチから一列前に上がり、インサイドハーフで並んだ香川と互いのポジションを見ながら臨機応変にプレー。ソツなく長短のパスをさばきつつ、攻守両面で与えられた役割をこなした。
「(香川)真司は自由に動いてやるタイプなので、どっちがどっちというわけじゃなく、スタートポジションだけ決めていただけで、あとは自由にやった。まだまだの部分も多いけど、初めて並んでやった割にはスムーズにできたかなと」
戦前には「4-3-3でやるのは久しぶりだし、うまくいかないところも出てくると思う」と語っていたが、武藤以外の先発メンバーとはザッケローニ体制で組んでおり、いわば旧知の仲。特長を理解していている分、すんなりと試合に入れたのも大きかった。
正確なキックと的確な判断も健在で、先制点の場面ではニアサイドの岡崎にピンポイントで合わせ、逸らせたボールを最終的に吉田が流し込んだ。また4点目の場面では、素早く縦パスを本田に通して起点となった。
相手との実力差を差し引いても、3点に絡む活躍は評価できるものだ。試合後のアギーレ監督は「今、日本のベストの23人を探している最中だが、年齢はそれほど気にしていない。質が高くて、日本代表としてプレーするという意欲を持った選手を探している」というコメントは、まるで遠藤へのメッセージのようだった。
日本代表の歴代最多出場を147試合に伸ばした男が見据えるのは、来年1月のアジアカップ。遠藤自身は手応えを口にするどころか、むしろ危機感を募らせている。
「まだ1試合しかやっていないし、僕はアピールする立場。自分の持っているものを全て出さない限り、メンバーには残り続けられないと思う。毎日、いろいろなものを吸収しながら、監督の要求にしっかり応えていきたい」
これまで歴代代表監督の要求にきっちり応えてきたように、“遠藤流処世術”を駆使してアギーレ体制でも着実に地歩を固めていきそうだ。
取材・文:大木 勇(週刊サッカーダイジェスト)
☆ホンジェラスに6対0 こんなに大量点で勝てるとは思わなかった。でもガンバの遠藤保仁選手の代表14ゴール目は 美しいミドルシュートでした。☆/font>
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