2009年まで、自民党がいかに国民を欺き、対米追従のために国民を犠牲にしてきたか。
佐藤栄作内閣下、米リチャード・ニクソン政権との沖縄返還協定に際し、公式発表では米国が支払うことになっていた地権者に対する土地原状回復費400万ドルを、実際には日本政府が肩代わりして米国に支払うという密約をしているとの情報を毎日新聞社政治部の西山記者がつかみ、事実を政治の場でも明らかにするため社会党にリークした。
1971年、佐藤栄作内閣下、日米間で結ばれた沖縄返還協定に際し、「アメリカが地権者に支払う土地現状復旧費用400万ドル(時価で約12億円)を日本政府がアメリカに秘密裏に支払う[1]」密約が存在するとの情報を、毎日新聞の西山は、女性事務官に酒を飲ませて泥酔させた上で半ば強制的に肉体関係を結び、その関係を基に外務省極秘電文のコピーを盗み出させ、これを得た。これは福田赳夫蔵相とデヴィッド・M・ケネディ米財務長官との会談内容であった[2]。表向きの返還交渉は愛知揆一外相とウィリアム・ピアース・ロジャーズ米国務長官(en)が行ったが、細かい金のやりとりは福田とケネディが交渉に当たった。人目を避けるため、福田とケネディはバージニア州のフェアフィールドパークにある密談のための施設で交渉した。その結果、日本は米国の施設引き渡し費用、および終戦直後の対日経済援助への謝意として、3000万ドルを支払った。西山が知るところとなった400万ドルはその一部であった。
1972年、社会党の横路孝弘と楢崎弥之助が西山が提供した外務省極秘電文のコピーを手に国会で追及した。この事実は大きな反響を呼び、世論は日本政府を強く批判した。政府は外務省極秘電文コピーが本物であることを認めた上で密約を否定し、一方で情報源がどこかを内密に突き止めた[3]。佐藤首相は西山と女性事務官の不倫関係を掴むと、「ガーンと一発やってやるか」(3月29日)と一転して強気に出た。西山と女性事務官は外務省の機密文書を漏らしたとして、4月4日に国家公務員法(守秘義務)違反の疑いで逮捕、起訴された。
当初は他紙も、西山を逮捕した日本政府を言論弾圧として非難し、西山を擁護していたが、佐藤は「そういうこと(言論の自由)でくるならオレは戦うよ」「料理屋で女性と会っているというが、都合悪くないかね」(4月6日)と不倫関係を匂わせてはねつけ、さらに4月8日には、参議院予算委員会で「国家の秘密はあるのであり、機密保護法制定はぜひ必要だ。この事件の関連でいうのではないが、かねての持論である」と主張した。『週刊新潮』によって不倫関係がスクープされ、さらに、東京地検特捜部の検事佐藤道夫(のちに政治家となった)が書いた起訴状に2人の男女関係を暴露する「ひそかに情を通じ、これを利用して」という言葉が記載されて、状況が一転したといわれる。起訴状が提出された日、毎日新聞は夕刊に「本社見解とおわび」を掲載、以後この問題の追及を一切やめた[4]。
その後は『週刊新潮』が「“機密漏洩事件…美しい日本の美しくない日本人”」という新聞批判の大キャンペーンを張った他、女性誌、テレビのワイドショーなどが、西山と女性事務官が双方とも既婚者でありながら、西山は肉体関係を武器に情報を得ていたとして連日批判を展開し、世論は一転して西山と女性事務官を非難する論調一色になった。裁判においても、審理は男女関係の問題、機密資料の入手方法の問題に終始した。
公判では女性事務官は求刑された罪状を全面的に認めた上で、改悛の情を訴え、西山の有罪を目指す姿勢を取った。社会党や市川房枝が女性事務官に無実を争う援助を申し出、女性事務官が断ったことも検察側は論告求刑で改悛の表れと主張した。西山側は密約の重大性と報道の自由を主張し、男女関係に踏み込むことは基本的に避けた。逆に、検察は直接の罪状である書類持ち出しについては触れず、女性事務官が西山にそそのかされたことを主張するのに専念した。検察側証人は、密約については「記憶にありません」、また「守秘義務」を理由に一切答えなかった。西山が女性事務官に対して「君や外務省には絶対に迷惑をかけない」と言いながらそれを反故にしたことや、女性事務官に取材としての利用価値がなくなると態度を急変して関係を消滅させたことを女性事務官が証言したことで[5]、西山の人間性が問題視された。西山側は積極的に男女関係は争わなかったが、1973年10月12日の最終弁論で女性事務官とは対等の男女の関係であり、西山が一方的に利用したものではないと西山の高木一弁護人は反論した。しかし、女性事務官やその夫からは「夫がいかにも私のヒモであるかのような表現を繰り返した。夫は激怒した。そして、男のメンツにかけても離婚の決意をせざるを得なくなった」[6]と週刊誌で批判された。実際は「ヒモ」やそれに類する発言はなかったのだが、西山側は法廷外での発言を避けたので、女性事務官夫妻の主張のみが大々的に報じられることになった[7]。一方、大島渚は二人が逮捕された後の1972年4月14日付毎日夕刊で「言論の自由というような抽象的な問題に立戻ってはいけない。佐藤首相の人間的反応にふりまわされてはいけない。問題は、あくまで佐藤内閣が私たちに何をしたかだ。知る権利などというのは自明のことだ。極秘資料のスッパ抜きに次ぐスッパ抜きを! 今こそ日本中を、スッパ抜きした極秘資料でもってあふれかえさせること。(以下略)」と述べている。
一審判決で西山は無罪となり、女性事務官は懲役6ヶ月、執行猶予1年の刑を受けた。女性事務官は無罪を争わなかった以上、有罪判決は避けられないものだったが、このことが女性事務官へのさらなる同情と、西山への反発を生んだ。西山は一審判決後に失職し、その他大手メディアも「密約の有無」という問題から撤退し[8]、沖縄密約についての政府の責任追及は完全に蚊帳の外に置かれた。女性事務官夫妻は離婚に追い込まれ、2人は週刊誌で西山への批判を繰り返した。
裁判においては、検察側は国家機関による秘密の決定と保持は行政府の権利及び義務であると前提付けた上で、報道の自由には制約があると主張し、国家公務員法の守秘義務は非公務員にも適用されると主張した。また、報道の自由がいかなる取材方法であっても無制限に認められるかが争われたが、前掲の理由により最終的に西山に懲役4月執行猶予1年、女性事務官に懲役6月執行猶予1年の有罪が確定した[9]。
最高裁は、「当初から秘密文書を入手するための手段として利用する意図で女性の公務員と肉体関係を持ち、同女が右関係のため被告人の依頼を拒み難い心理状態に陥つたことに乗じて秘密文書を持ち出させたなど取材対象者の人格を著しく蹂躪した本件取材行為は、正当な取材活動の範囲を逸脱するものである」、「報道機関といえども、取材に関し他人の権利・自由を不当に侵害することのできる特権を有するものでない」と判示し、西山の取材活動について違法性と報道の自由が無制限ではないことを認めた[9]。なお、一審判決後、西山は毎日新聞を退社し、郷里で家業を継いだ。
* 1969年11月21日 - 佐藤=ニクソン共同声明で「核抜き、本土並み」の沖縄返還を約束
* 1971年5月18日 - 西山が外務事務官の知人女性を機密情報目的で飲食に誘い出し、飲食の後、半ば強引に女性事務官と性的関係を結ぶ[10]。
* 1971年5月22日 - 性交渉の後、西山が、女性事務官に対して、「取材に困っている、助けると思って安川審議官のところに来る書類をみせてくれ。君や外務省には絶対迷惑をかけない。特に、沖縄関係の秘密文書を頼む」と不倫関係を盾に機密漏洩を要求した[10]
* 1971年6月11日 - 西山が疑惑をにおわせる署名入り記事(ただし、核心は紙面化せず)
* 1971年6月 - 福田赳夫外務大臣が「裏取引は全然ありません」と国会で答弁。
* 1971年6月17日 - 日米間で沖縄返還協定調印。
* 1971年6月28日 - 西山が渡米。帰国後も女性事務官との関係を絶つ[10]
* 1971年11月17日 - 衆議院沖縄返還協定特別委員会で強行採決。
* 1972年3月27日 - 衆議院予算委員会で社会党議員の横路孝弘と楢崎弥之助が政府説明と正反対の内容の外務省極秘電文を公開。密約の存在を追求。
* 1972年3月30日 - 外務省の内部調査で、女性事務官が「私は騙された」と泣き崩れて西山に機密電信を手渡したことを自白。
* 1972年4月4日 - 国家公務員法111条(秘密漏洩をそそのかす罪)違反で西山が女性事務官とともに逮捕される。
* 1972年4月5日 - 毎日新聞は朝刊紙上で取材活動の正当性を主張。他紙も同調。
* 1972年4月15日 - 東京地方検察庁検察官佐藤道夫が起訴状に「ひそかに情を通じ…」と記載。同日夕、毎日新聞夕刊が「本社見解とおわび」を掲載。
* 1972年5月15日 - 26年ぶりに沖縄復帰。
* 1972年6月 - 佐藤栄作首相が退陣会見で内閣記者団と衝突。「テレビ、前に出て下さい。新聞記者とは話したくない」発言が出る。7月総辞職。
* 1974年1月30日 - 一審判決。女性元事務官に懲役6月執行猶予1年、西山には無罪判決。毎日新聞退職。
* 1974年12月 - 佐藤栄作ノーベル平和賞受賞
* 1976年7月20日 - 二審判決。西山に懲役4月執行猶予1年の有罪判決。西山側が上告。
* 1978年5月30日 - 最高裁判所が上告棄却。西山の有罪が確定。
影響 [編集]
この事件の後、西山の所属した毎日新聞社は、本事件での西山のセックススキャンダル報道を理由とした不買運動により発行部数が減少し、全国紙の販売競争から脱落した。また、オイルショックによる広告収入減等もあり、1977年に一度倒産した。当時週刊新潮編集部員だった亀井淳によると、新潮のキャンペーンは極めて好評で、一般読者から無数の激励があったばかりか、毎日新聞社の内情を知らせる情報が次々にもたらされたという。亀井は、「この経験で、週刊新潮は言論によるテロリズムの効果と、その商業的な骨法を会得したのだと思う」と批判的に振り返っている[11]。
会社存続の危機に直面した毎日新聞社は、スポンサー獲得に奔走した。政治部主導で宮本顕治日本共産党委員長と池田大作創価学会会長の会見を設定して、当時対立していた日本共産党と創価学会との関係を取り持つことに成功、1979年12月に両者の間で日本共産党と創価学会との合意についての協定(創共協定)が締結された。そして、その見返りとして創価学会機関紙『聖教新聞』の印刷代行を受注することになった(創価学会は機関紙・出版物の印刷部門や、印刷を請ける関連会社を持たない)。
以後、大手メディアの政治部が国家機密に関わる事項についてスクープするということがなくなった(リクルート事件をスクープしたのは政治部ではなく社会部であった)。
アメリカの公文書公開以降の動き [編集]
沖縄返還協定の密約のもう片方の当事者であるアメリカ合衆国では、2011年現在、密約の存在を示す文書については機密解除され、アメリカ国立公文書記録管理局にて公文書として閲覧可能であるが、日本政府(自民党政権)は2010年まで文書の存在を否定し続けて来た[12]。
2005年4月25日に西山は「密約の存在を知りながら違法に起訴された」として国家賠償請求訴訟を提起したが、2007年3月27日の東京地裁で加藤謙一裁判長は、「損害賠償請求の20年の除斥期間を過ぎ、請求の権利がない」とし訴えを棄却、密約の存在には全く触れなかった。
原告側は「20年経過で請求権なし」という判決に対し「2000年の米公文書公開で初めて密約が立証され、提訴可能になった。25年経って公文書が公開されたのに、それ以前の20年の除斥期間で請求権消滅は不当」として控訴した。密約の存在を認めた当時の外務省アメリカ局長・吉野文六を証人申請したが、東京高裁は「必要なし」と却下した。
2008年2月20日、東京高裁での控訴審(大坪丘裁判長)も「20年の除斥期間で請求権は消滅」と、一審の東京地裁判決を支持し、控訴を棄却した。ここでも密約の有無についての言及はなかった。判決後の会見で西山は、「司法が完全に行政の中に組み込まれてしまっている。日本が法治国家の基礎的要件を喪失している」と語った。
原告側は上告したが、2008年9月2日に最高裁第三小法廷(藤田宙靖裁判長)は上告を棄却し、一審・二審の判決が確定した[13]。
2008年9月、西山を支持するジャーナリスト有志が外交文書の情報公開を外務省と財務省に求めたが、10月2日「不存在」とされた。これにより、西山側は提訴[14][15]。2010年4月、文書開示と損害賠償を命じる一審判決が下った。
さらに、アメリカの公文書公開によって、400万ドルのうち300万ドルは地権者に渡らず、米軍経費などに流用されたことや、この密約以外に、日本が米国に合計1億8700万ドルを提供する密約、日本政府が米国に西山のスクープに対する口止めを要求した記録文書などが明らかになっている[16]。
2009年9月16日、民主党主導の鳩山由紀夫内閣が成立した。外務大臣となった岡田克也は外務省に、かねて計画していた情報公開の一環として、密約関連文書を全て調査の上で公開するよう命じた。これにより設置された調査委員会が2010年3 月、全てについて密約及び密約に類するものが存在していた事を認めた。また岡田は同年5月、作成後30年を経過した公文書については全て開示すべき事を定めた。
* 2000年5月 - 我部政明・琉球大学教授と朝日新聞が、米公文書館で、25年間の秘密指定が解かれた公文書類の中に、密約を裏付ける文書を発見。西山がスクープした400万ドル以外に日本が1億8700万ドルを米国に提供する密約が記されていた[16]。
* 2002年 - 「日本政府が400万ドルという数字と日米間の密約が公にならないように神経をとがらせていて、メディアの追求に対して米国側に同一歩調をとるように要求してきている」と記載された1976年6月のアメリカ国家安全保障会議文書が公開。6月、川口順子外務大臣が「事実関係として密約はない」(記者会見)「かつて〔二〇〇〇年〕河野外相が吉野元アメリカ局長に密約の有無を確認したところ、吉野氏は、密約は無いと回答したと聞いている」(国会答弁)、福田康夫官房長官が「密約は一切ない」(記者会見)
* 2005年4月 - 西山が「国家による情報隠蔽・操作が容易にできることを裁判を通じて国民の前に明らかにする」として国家賠償請求を東京地裁に提訴。
* 2006年2月8日 - 北海道新聞の取材に対して、吉野文六・元外務省アメリカ局長が日本側当事者として密約の存在を初めて認めた。一方安倍晋三官房長官は「まったくそうした密約はなかった」と同月、記者会見で主張。
* 2007年3月27日 - 一審東京地裁で加藤謙一裁判長は「損害賠償請求の20年の除斥期間を過ぎ、請求の権利がない」として西山の訴えを棄却、密約の存在には全く触れなかった。原告は控訴。
* 2007年5月 - 沖縄タイムスが、米公文書から日本政府が米国に支払った400万ドルのうち300万ドル以上が権利者に支払われず、米陸軍経費に流用されていた事実を発見。
* 2007年12月 - 高村正彦外務大臣が「歴代外務大臣が答弁しているように密約はございません」と国会で答弁。
* 2008年2月20日 - 二審東京高裁の大坪丘裁判長は「20年の除斥期間で請求権は消滅」として原告敗訴とした。密約の有無についての言及はなし。
* 2008年9月2日 - 最高裁第三小法廷(藤田宙靖裁判長)は原告の上告を棄却し、一審・二審の判決が確定。7日、作家や研究者、ジャーナリストら63人が連名で情報公開法に基づき、沖縄返還をめぐり日米両政府間で交わされた密約文書3通(米公文書では開示されている)の開示を外務省と財務省に請求。外務・財務両省は10月2日、対象文書の「不存在」を理由に不開示を決定。
* 2009年3月14日 - 岡田克也・民主党副代表、「やりたいのは情報公開。政権交代が成ったら隠しているものを全部出す、政府がどれだけうそを言ってきたかわかる」と発言。
* 2009年3月18日 - 西山他25人、不開示処分取り消しと文書開示、慰謝料を請求する「沖縄密約情報公開訴訟」(以下「密約訴訟」)を提起。8月、吉野を12月に証人として呼び、尋問することが決定[17]。
* 2009年7月11日 - 2001年4月の情報公開法施行に先立ち、2000年に中央省庁各所で書類処分が行なわれたが、量は外務省が頭抜けて多く、しかも、廃棄された書類のなかには密約関係のものも含まれていた疑いがあることを『朝日新聞』がスクープ[18][19][20]。
* 2009年9月17日 - 鳩山由紀夫内閣で外務大臣に就任した岡田、非核三原則の裏で結ばれた日米核持ち込み密約問題 と朝鮮半島有事における作戦行動に関する密約に加えて沖縄返還協定の密約も調査公表するよう外務省・藪中三十二事務次官に指示。期限は11月末まで[21][22]。20日、『サンデー・プロジェクト』内で、外部の有識者による調査(関係者からの聞き取り、アメリカでの調査)を10月下旬から開始、また、外交文書の公開についても外務省内のみで決めていたのを見直しきちんと定めたい旨言明。
* 2009年11月28日 - 岡田、「日米密約調査に関する有識者委員会」設置を決定。座長は北岡伸一・東大教授。
* 2009年12月1日 - 密約訴訟に原告側証人として出廷した吉野が、これまでの発言を撤回。「過去の歴史を歪曲するのは、国民のためにならない」と証言し、密約が存在する事実[23]、密約文書に「BY」(=Bunroku Yoshino)、交渉相手だったアメリカのリチャード・スナイダー公使が「RS」(=Richard Snyder)と署名した事を認める[24][25]。
* 2009年12月22日 - 佐藤榮作元内閣総理大臣私邸から、佐藤=ニクソン共同声明における、核密約に係る覚書文書が発見され、佐藤家が保管していることが判明した[26]。
* 2010年2月16日 - 密約訴訟、結審。判決は4月9日に言い渡し予定[27]。岡田外相、密約調査結果の公表について「3月中には」と衆議院予算委員会で答弁。平岡秀夫の質問に対し[28]。
* 2010年2月27日 - 西山、訴訟支援集会で「最大の密約は6500万ドルの米軍施設改良工事費だ」「一ドル分も返還協定書に記載されていない。外務省の予算項目を変えて潜り込ませて、国会の審議ではフリーパスだった」と発言。我部も「日米の共犯で米軍基地が残った。密約がその共犯関係を押し隠している」[29]。
* 2010年3月9日 - 「密約」問題に関する有識者委員会、原状回復費の肩代わりほか4つの密約について岡田外相に報告書提出。原状回復費の肩代わりの合意及び出費について、文書化はされていないものの、日本側からの3億2000万ドルのうち、400万ドルについて原状回復費に手当てするなどについて日本側の認識があったとして「広義の密約」にあたるとした。
* 2010年4月9日 - 密約訴訟判決。東京地裁(杉原則彦裁判長)は「国民の知る権利を蔑ろにする外務省の対応は不誠実と言わざるを得ない」[30]として外務省の非開示処分を取り消し、文書開示(本当に存在しないなら“いつ” “誰の指示で” “どの様に”処分されたのかも)と原告一人当たり10万円の損害賠償を国に命令[31]。西山は文京区民センターでの講演『知る権利は守られたか』でこの判決を「歴史に残る判決」と評価し、「われわれが裁判を起こして今回の判決を導き出していなければ、外務省の外部有識者委員会による報告書が密約問題に関する唯一の解明文書となり、国民の知る権利は封殺されていただろう」と述べた[32]。なお、行政訴訟では一審で勝訴したものの事件には関係ないため自身の有罪判決は変わらないが、再審請求は「全く考えていません」。
* 2010年4月22日 - 外務省、密約訴訟の開示命令判決に対し控訴。「保有していない文書についての開示決定を行うことはできない」[33]。
* 2010年5月 - 外務省、09年9月の大臣発言に基づき公文書公開に関する規則を決定。作成後30年経過したものは開示する旨定める。
* 2010年12月7日 - 外務省、沖縄返還や60年安保関連の外交文書を22日に公開することを決定[34]。公開された文書により、“アメリカ政府が負担すべき米軍基地の施設改良費6500万ドルの肩代わり密約”が存在していたことが判明[35]。
* 2011年1月30日 - 沖縄密約情報開示訴訟原告団、「市民による沖縄密約調査チーム」を結成。日本側に残っている文書とアメリカ国立公文書記録管理局保管の文書を突き合わせて、欠落・廃棄部分は何か究明を目指す。
* 2011年2月18日 - 西山と事務官が逮捕された直後の1972年4月5日、駐米大使・牛場信彦が外務大臣・福田赳夫に宛てた公電で、アメリカ側の反応を報告していた事が判明。国務次官ウラル・アレクシス・ジョンソンに電話を入れ“事件でアメリカ側が気分を害したとすればまことに遺憾、再発防止に努める”と謝罪、ジョンソンからは謝罪を了とし「極めて手際良く処理された」と評価していたと報告していた[36]。
佐藤栄作内閣下、米リチャード・ニクソン政権との沖縄返還協定に際し、公式発表では米国が支払うことになっていた地権者に対する土地原状回復費400万ドルを、実際には日本政府が肩代わりして米国に支払うという密約をしているとの情報を毎日新聞社政治部の西山記者がつかみ、事実を政治の場でも明らかにするため社会党にリークした。
1971年、佐藤栄作内閣下、日米間で結ばれた沖縄返還協定に際し、「アメリカが地権者に支払う土地現状復旧費用400万ドル(時価で約12億円)を日本政府がアメリカに秘密裏に支払う[1]」密約が存在するとの情報を、毎日新聞の西山は、女性事務官に酒を飲ませて泥酔させた上で半ば強制的に肉体関係を結び、その関係を基に外務省極秘電文のコピーを盗み出させ、これを得た。これは福田赳夫蔵相とデヴィッド・M・ケネディ米財務長官との会談内容であった[2]。表向きの返還交渉は愛知揆一外相とウィリアム・ピアース・ロジャーズ米国務長官(en)が行ったが、細かい金のやりとりは福田とケネディが交渉に当たった。人目を避けるため、福田とケネディはバージニア州のフェアフィールドパークにある密談のための施設で交渉した。その結果、日本は米国の施設引き渡し費用、および終戦直後の対日経済援助への謝意として、3000万ドルを支払った。西山が知るところとなった400万ドルはその一部であった。
1972年、社会党の横路孝弘と楢崎弥之助が西山が提供した外務省極秘電文のコピーを手に国会で追及した。この事実は大きな反響を呼び、世論は日本政府を強く批判した。政府は外務省極秘電文コピーが本物であることを認めた上で密約を否定し、一方で情報源がどこかを内密に突き止めた[3]。佐藤首相は西山と女性事務官の不倫関係を掴むと、「ガーンと一発やってやるか」(3月29日)と一転して強気に出た。西山と女性事務官は外務省の機密文書を漏らしたとして、4月4日に国家公務員法(守秘義務)違反の疑いで逮捕、起訴された。
当初は他紙も、西山を逮捕した日本政府を言論弾圧として非難し、西山を擁護していたが、佐藤は「そういうこと(言論の自由)でくるならオレは戦うよ」「料理屋で女性と会っているというが、都合悪くないかね」(4月6日)と不倫関係を匂わせてはねつけ、さらに4月8日には、参議院予算委員会で「国家の秘密はあるのであり、機密保護法制定はぜひ必要だ。この事件の関連でいうのではないが、かねての持論である」と主張した。『週刊新潮』によって不倫関係がスクープされ、さらに、東京地検特捜部の検事佐藤道夫(のちに政治家となった)が書いた起訴状に2人の男女関係を暴露する「ひそかに情を通じ、これを利用して」という言葉が記載されて、状況が一転したといわれる。起訴状が提出された日、毎日新聞は夕刊に「本社見解とおわび」を掲載、以後この問題の追及を一切やめた[4]。
その後は『週刊新潮』が「“機密漏洩事件…美しい日本の美しくない日本人”」という新聞批判の大キャンペーンを張った他、女性誌、テレビのワイドショーなどが、西山と女性事務官が双方とも既婚者でありながら、西山は肉体関係を武器に情報を得ていたとして連日批判を展開し、世論は一転して西山と女性事務官を非難する論調一色になった。裁判においても、審理は男女関係の問題、機密資料の入手方法の問題に終始した。
公判では女性事務官は求刑された罪状を全面的に認めた上で、改悛の情を訴え、西山の有罪を目指す姿勢を取った。社会党や市川房枝が女性事務官に無実を争う援助を申し出、女性事務官が断ったことも検察側は論告求刑で改悛の表れと主張した。西山側は密約の重大性と報道の自由を主張し、男女関係に踏み込むことは基本的に避けた。逆に、検察は直接の罪状である書類持ち出しについては触れず、女性事務官が西山にそそのかされたことを主張するのに専念した。検察側証人は、密約については「記憶にありません」、また「守秘義務」を理由に一切答えなかった。西山が女性事務官に対して「君や外務省には絶対に迷惑をかけない」と言いながらそれを反故にしたことや、女性事務官に取材としての利用価値がなくなると態度を急変して関係を消滅させたことを女性事務官が証言したことで[5]、西山の人間性が問題視された。西山側は積極的に男女関係は争わなかったが、1973年10月12日の最終弁論で女性事務官とは対等の男女の関係であり、西山が一方的に利用したものではないと西山の高木一弁護人は反論した。しかし、女性事務官やその夫からは「夫がいかにも私のヒモであるかのような表現を繰り返した。夫は激怒した。そして、男のメンツにかけても離婚の決意をせざるを得なくなった」[6]と週刊誌で批判された。実際は「ヒモ」やそれに類する発言はなかったのだが、西山側は法廷外での発言を避けたので、女性事務官夫妻の主張のみが大々的に報じられることになった[7]。一方、大島渚は二人が逮捕された後の1972年4月14日付毎日夕刊で「言論の自由というような抽象的な問題に立戻ってはいけない。佐藤首相の人間的反応にふりまわされてはいけない。問題は、あくまで佐藤内閣が私たちに何をしたかだ。知る権利などというのは自明のことだ。極秘資料のスッパ抜きに次ぐスッパ抜きを! 今こそ日本中を、スッパ抜きした極秘資料でもってあふれかえさせること。(以下略)」と述べている。
一審判決で西山は無罪となり、女性事務官は懲役6ヶ月、執行猶予1年の刑を受けた。女性事務官は無罪を争わなかった以上、有罪判決は避けられないものだったが、このことが女性事務官へのさらなる同情と、西山への反発を生んだ。西山は一審判決後に失職し、その他大手メディアも「密約の有無」という問題から撤退し[8]、沖縄密約についての政府の責任追及は完全に蚊帳の外に置かれた。女性事務官夫妻は離婚に追い込まれ、2人は週刊誌で西山への批判を繰り返した。
裁判においては、検察側は国家機関による秘密の決定と保持は行政府の権利及び義務であると前提付けた上で、報道の自由には制約があると主張し、国家公務員法の守秘義務は非公務員にも適用されると主張した。また、報道の自由がいかなる取材方法であっても無制限に認められるかが争われたが、前掲の理由により最終的に西山に懲役4月執行猶予1年、女性事務官に懲役6月執行猶予1年の有罪が確定した[9]。
最高裁は、「当初から秘密文書を入手するための手段として利用する意図で女性の公務員と肉体関係を持ち、同女が右関係のため被告人の依頼を拒み難い心理状態に陥つたことに乗じて秘密文書を持ち出させたなど取材対象者の人格を著しく蹂躪した本件取材行為は、正当な取材活動の範囲を逸脱するものである」、「報道機関といえども、取材に関し他人の権利・自由を不当に侵害することのできる特権を有するものでない」と判示し、西山の取材活動について違法性と報道の自由が無制限ではないことを認めた[9]。なお、一審判決後、西山は毎日新聞を退社し、郷里で家業を継いだ。
* 1969年11月21日 - 佐藤=ニクソン共同声明で「核抜き、本土並み」の沖縄返還を約束
* 1971年5月18日 - 西山が外務事務官の知人女性を機密情報目的で飲食に誘い出し、飲食の後、半ば強引に女性事務官と性的関係を結ぶ[10]。
* 1971年5月22日 - 性交渉の後、西山が、女性事務官に対して、「取材に困っている、助けると思って安川審議官のところに来る書類をみせてくれ。君や外務省には絶対迷惑をかけない。特に、沖縄関係の秘密文書を頼む」と不倫関係を盾に機密漏洩を要求した[10]
* 1971年6月11日 - 西山が疑惑をにおわせる署名入り記事(ただし、核心は紙面化せず)
* 1971年6月 - 福田赳夫外務大臣が「裏取引は全然ありません」と国会で答弁。
* 1971年6月17日 - 日米間で沖縄返還協定調印。
* 1971年6月28日 - 西山が渡米。帰国後も女性事務官との関係を絶つ[10]
* 1971年11月17日 - 衆議院沖縄返還協定特別委員会で強行採決。
* 1972年3月27日 - 衆議院予算委員会で社会党議員の横路孝弘と楢崎弥之助が政府説明と正反対の内容の外務省極秘電文を公開。密約の存在を追求。
* 1972年3月30日 - 外務省の内部調査で、女性事務官が「私は騙された」と泣き崩れて西山に機密電信を手渡したことを自白。
* 1972年4月4日 - 国家公務員法111条(秘密漏洩をそそのかす罪)違反で西山が女性事務官とともに逮捕される。
* 1972年4月5日 - 毎日新聞は朝刊紙上で取材活動の正当性を主張。他紙も同調。
* 1972年4月15日 - 東京地方検察庁検察官佐藤道夫が起訴状に「ひそかに情を通じ…」と記載。同日夕、毎日新聞夕刊が「本社見解とおわび」を掲載。
* 1972年5月15日 - 26年ぶりに沖縄復帰。
* 1972年6月 - 佐藤栄作首相が退陣会見で内閣記者団と衝突。「テレビ、前に出て下さい。新聞記者とは話したくない」発言が出る。7月総辞職。
* 1974年1月30日 - 一審判決。女性元事務官に懲役6月執行猶予1年、西山には無罪判決。毎日新聞退職。
* 1974年12月 - 佐藤栄作ノーベル平和賞受賞
* 1976年7月20日 - 二審判決。西山に懲役4月執行猶予1年の有罪判決。西山側が上告。
* 1978年5月30日 - 最高裁判所が上告棄却。西山の有罪が確定。
影響 [編集]
この事件の後、西山の所属した毎日新聞社は、本事件での西山のセックススキャンダル報道を理由とした不買運動により発行部数が減少し、全国紙の販売競争から脱落した。また、オイルショックによる広告収入減等もあり、1977年に一度倒産した。当時週刊新潮編集部員だった亀井淳によると、新潮のキャンペーンは極めて好評で、一般読者から無数の激励があったばかりか、毎日新聞社の内情を知らせる情報が次々にもたらされたという。亀井は、「この経験で、週刊新潮は言論によるテロリズムの効果と、その商業的な骨法を会得したのだと思う」と批判的に振り返っている[11]。
会社存続の危機に直面した毎日新聞社は、スポンサー獲得に奔走した。政治部主導で宮本顕治日本共産党委員長と池田大作創価学会会長の会見を設定して、当時対立していた日本共産党と創価学会との関係を取り持つことに成功、1979年12月に両者の間で日本共産党と創価学会との合意についての協定(創共協定)が締結された。そして、その見返りとして創価学会機関紙『聖教新聞』の印刷代行を受注することになった(創価学会は機関紙・出版物の印刷部門や、印刷を請ける関連会社を持たない)。
以後、大手メディアの政治部が国家機密に関わる事項についてスクープするということがなくなった(リクルート事件をスクープしたのは政治部ではなく社会部であった)。
アメリカの公文書公開以降の動き [編集]
沖縄返還協定の密約のもう片方の当事者であるアメリカ合衆国では、2011年現在、密約の存在を示す文書については機密解除され、アメリカ国立公文書記録管理局にて公文書として閲覧可能であるが、日本政府(自民党政権)は2010年まで文書の存在を否定し続けて来た[12]。
2005年4月25日に西山は「密約の存在を知りながら違法に起訴された」として国家賠償請求訴訟を提起したが、2007年3月27日の東京地裁で加藤謙一裁判長は、「損害賠償請求の20年の除斥期間を過ぎ、請求の権利がない」とし訴えを棄却、密約の存在には全く触れなかった。
原告側は「20年経過で請求権なし」という判決に対し「2000年の米公文書公開で初めて密約が立証され、提訴可能になった。25年経って公文書が公開されたのに、それ以前の20年の除斥期間で請求権消滅は不当」として控訴した。密約の存在を認めた当時の外務省アメリカ局長・吉野文六を証人申請したが、東京高裁は「必要なし」と却下した。
2008年2月20日、東京高裁での控訴審(大坪丘裁判長)も「20年の除斥期間で請求権は消滅」と、一審の東京地裁判決を支持し、控訴を棄却した。ここでも密約の有無についての言及はなかった。判決後の会見で西山は、「司法が完全に行政の中に組み込まれてしまっている。日本が法治国家の基礎的要件を喪失している」と語った。
原告側は上告したが、2008年9月2日に最高裁第三小法廷(藤田宙靖裁判長)は上告を棄却し、一審・二審の判決が確定した[13]。
2008年9月、西山を支持するジャーナリスト有志が外交文書の情報公開を外務省と財務省に求めたが、10月2日「不存在」とされた。これにより、西山側は提訴[14][15]。2010年4月、文書開示と損害賠償を命じる一審判決が下った。
さらに、アメリカの公文書公開によって、400万ドルのうち300万ドルは地権者に渡らず、米軍経費などに流用されたことや、この密約以外に、日本が米国に合計1億8700万ドルを提供する密約、日本政府が米国に西山のスクープに対する口止めを要求した記録文書などが明らかになっている[16]。
2009年9月16日、民主党主導の鳩山由紀夫内閣が成立した。外務大臣となった岡田克也は外務省に、かねて計画していた情報公開の一環として、密約関連文書を全て調査の上で公開するよう命じた。これにより設置された調査委員会が2010年3 月、全てについて密約及び密約に類するものが存在していた事を認めた。また岡田は同年5月、作成後30年を経過した公文書については全て開示すべき事を定めた。
* 2000年5月 - 我部政明・琉球大学教授と朝日新聞が、米公文書館で、25年間の秘密指定が解かれた公文書類の中に、密約を裏付ける文書を発見。西山がスクープした400万ドル以外に日本が1億8700万ドルを米国に提供する密約が記されていた[16]。
* 2002年 - 「日本政府が400万ドルという数字と日米間の密約が公にならないように神経をとがらせていて、メディアの追求に対して米国側に同一歩調をとるように要求してきている」と記載された1976年6月のアメリカ国家安全保障会議文書が公開。6月、川口順子外務大臣が「事実関係として密約はない」(記者会見)「かつて〔二〇〇〇年〕河野外相が吉野元アメリカ局長に密約の有無を確認したところ、吉野氏は、密約は無いと回答したと聞いている」(国会答弁)、福田康夫官房長官が「密約は一切ない」(記者会見)
* 2005年4月 - 西山が「国家による情報隠蔽・操作が容易にできることを裁判を通じて国民の前に明らかにする」として国家賠償請求を東京地裁に提訴。
* 2006年2月8日 - 北海道新聞の取材に対して、吉野文六・元外務省アメリカ局長が日本側当事者として密約の存在を初めて認めた。一方安倍晋三官房長官は「まったくそうした密約はなかった」と同月、記者会見で主張。
* 2007年3月27日 - 一審東京地裁で加藤謙一裁判長は「損害賠償請求の20年の除斥期間を過ぎ、請求の権利がない」として西山の訴えを棄却、密約の存在には全く触れなかった。原告は控訴。
* 2007年5月 - 沖縄タイムスが、米公文書から日本政府が米国に支払った400万ドルのうち300万ドル以上が権利者に支払われず、米陸軍経費に流用されていた事実を発見。
* 2007年12月 - 高村正彦外務大臣が「歴代外務大臣が答弁しているように密約はございません」と国会で答弁。
* 2008年2月20日 - 二審東京高裁の大坪丘裁判長は「20年の除斥期間で請求権は消滅」として原告敗訴とした。密約の有無についての言及はなし。
* 2008年9月2日 - 最高裁第三小法廷(藤田宙靖裁判長)は原告の上告を棄却し、一審・二審の判決が確定。7日、作家や研究者、ジャーナリストら63人が連名で情報公開法に基づき、沖縄返還をめぐり日米両政府間で交わされた密約文書3通(米公文書では開示されている)の開示を外務省と財務省に請求。外務・財務両省は10月2日、対象文書の「不存在」を理由に不開示を決定。
* 2009年3月14日 - 岡田克也・民主党副代表、「やりたいのは情報公開。政権交代が成ったら隠しているものを全部出す、政府がどれだけうそを言ってきたかわかる」と発言。
* 2009年3月18日 - 西山他25人、不開示処分取り消しと文書開示、慰謝料を請求する「沖縄密約情報公開訴訟」(以下「密約訴訟」)を提起。8月、吉野を12月に証人として呼び、尋問することが決定[17]。
* 2009年7月11日 - 2001年4月の情報公開法施行に先立ち、2000年に中央省庁各所で書類処分が行なわれたが、量は外務省が頭抜けて多く、しかも、廃棄された書類のなかには密約関係のものも含まれていた疑いがあることを『朝日新聞』がスクープ[18][19][20]。
* 2009年9月17日 - 鳩山由紀夫内閣で外務大臣に就任した岡田、非核三原則の裏で結ばれた日米核持ち込み密約問題 と朝鮮半島有事における作戦行動に関する密約に加えて沖縄返還協定の密約も調査公表するよう外務省・藪中三十二事務次官に指示。期限は11月末まで[21][22]。20日、『サンデー・プロジェクト』内で、外部の有識者による調査(関係者からの聞き取り、アメリカでの調査)を10月下旬から開始、また、外交文書の公開についても外務省内のみで決めていたのを見直しきちんと定めたい旨言明。
* 2009年11月28日 - 岡田、「日米密約調査に関する有識者委員会」設置を決定。座長は北岡伸一・東大教授。
* 2009年12月1日 - 密約訴訟に原告側証人として出廷した吉野が、これまでの発言を撤回。「過去の歴史を歪曲するのは、国民のためにならない」と証言し、密約が存在する事実[23]、密約文書に「BY」(=Bunroku Yoshino)、交渉相手だったアメリカのリチャード・スナイダー公使が「RS」(=Richard Snyder)と署名した事を認める[24][25]。
* 2009年12月22日 - 佐藤榮作元内閣総理大臣私邸から、佐藤=ニクソン共同声明における、核密約に係る覚書文書が発見され、佐藤家が保管していることが判明した[26]。
* 2010年2月16日 - 密約訴訟、結審。判決は4月9日に言い渡し予定[27]。岡田外相、密約調査結果の公表について「3月中には」と衆議院予算委員会で答弁。平岡秀夫の質問に対し[28]。
* 2010年2月27日 - 西山、訴訟支援集会で「最大の密約は6500万ドルの米軍施設改良工事費だ」「一ドル分も返還協定書に記載されていない。外務省の予算項目を変えて潜り込ませて、国会の審議ではフリーパスだった」と発言。我部も「日米の共犯で米軍基地が残った。密約がその共犯関係を押し隠している」[29]。
* 2010年3月9日 - 「密約」問題に関する有識者委員会、原状回復費の肩代わりほか4つの密約について岡田外相に報告書提出。原状回復費の肩代わりの合意及び出費について、文書化はされていないものの、日本側からの3億2000万ドルのうち、400万ドルについて原状回復費に手当てするなどについて日本側の認識があったとして「広義の密約」にあたるとした。
* 2010年4月9日 - 密約訴訟判決。東京地裁(杉原則彦裁判長)は「国民の知る権利を蔑ろにする外務省の対応は不誠実と言わざるを得ない」[30]として外務省の非開示処分を取り消し、文書開示(本当に存在しないなら“いつ” “誰の指示で” “どの様に”処分されたのかも)と原告一人当たり10万円の損害賠償を国に命令[31]。西山は文京区民センターでの講演『知る権利は守られたか』でこの判決を「歴史に残る判決」と評価し、「われわれが裁判を起こして今回の判決を導き出していなければ、外務省の外部有識者委員会による報告書が密約問題に関する唯一の解明文書となり、国民の知る権利は封殺されていただろう」と述べた[32]。なお、行政訴訟では一審で勝訴したものの事件には関係ないため自身の有罪判決は変わらないが、再審請求は「全く考えていません」。
* 2010年4月22日 - 外務省、密約訴訟の開示命令判決に対し控訴。「保有していない文書についての開示決定を行うことはできない」[33]。
* 2010年5月 - 外務省、09年9月の大臣発言に基づき公文書公開に関する規則を決定。作成後30年経過したものは開示する旨定める。
* 2010年12月7日 - 外務省、沖縄返還や60年安保関連の外交文書を22日に公開することを決定[34]。公開された文書により、“アメリカ政府が負担すべき米軍基地の施設改良費6500万ドルの肩代わり密約”が存在していたことが判明[35]。
* 2011年1月30日 - 沖縄密約情報開示訴訟原告団、「市民による沖縄密約調査チーム」を結成。日本側に残っている文書とアメリカ国立公文書記録管理局保管の文書を突き合わせて、欠落・廃棄部分は何か究明を目指す。
* 2011年2月18日 - 西山と事務官が逮捕された直後の1972年4月5日、駐米大使・牛場信彦が外務大臣・福田赳夫に宛てた公電で、アメリカ側の反応を報告していた事が判明。国務次官ウラル・アレクシス・ジョンソンに電話を入れ“事件でアメリカ側が気分を害したとすればまことに遺憾、再発防止に努める”と謝罪、ジョンソンからは謝罪を了とし「極めて手際良く処理された」と評価していたと報告していた[36]。