ヤコブの手紙 2:24 は、聖書の中で「信仰のみ」という語句が使われている唯一の節であり、人々は「行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではない」と述べられています。これは、マルティン・ルターがヤコブの手紙を聖書から削除したかった理由の 1 つです。ルター自身も、信仰のみはヤコブの手紙と矛盾していることを認めており、「私はそれを使徒の著作とは見なさない」とさえ主張しています。1530 年以前のバージョンの「ヤコブの手紙への序文」で、ルターは、ヤコブは「義と認められることを行いに帰することで、聖パウロと聖書の残りの部分にきっぱりと反対している。…彼は聖書を台無しにし、それによってパウロと聖書全体に反対している」と主張しました。
そこでルターは次のような挑戦状をたたきつけた。「この二人を納得させることができる者に、私は医者の帽子を与える。そして愚か者と呼ばれても構わない。」
したがって、ルターは、神学を聖書に合うように調整する代わりに、ヤコブの手紙を正典の低い地位に追いやるという解決策を取り、序文ではっきりと「私は、この手紙を聖書の真の主要な書物として数えるつもりはない」と宣言した。実際、ルターの助言は「ヤコブの手紙は大した価値がないので、この学派から排除すべきだ」というものだった。そしてもちろん、ルターはヤコブの手紙を「わらの手紙」と宣言したことは有名である。
ローマ書 3:28 は、聖書の中で、ルターの義認に関する斬新な考えを証明するのに最も近い節でした。しかし、ルターのsola教義を真実にする重要な単語「only」が欠けていました。しかし、ルターはここでも、神学を調整するのではなく、聖書を調整しました。ルターはローマ書の翻訳で、聖書の裏付けがあるように見せるために、3:28 に「only」という言葉を加えました(「人は律法の行いとは別に、信仰のみによって義とされる」としました)。
このかなり明白な翻訳上の偏向について異議を唱えられたとき、ルターはこう答えた。「もしあなたのカトリック信者がsola [単独の]という言葉についてそんなに騒ぎ立てたいのなら、こう言いなさい。『マルティン・ルター博士はそう望んでおり、カトリック信者とロバは同じものだと言っています。』」