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延暦寺などは、武力行使をちらつかせ周囲の他宗派の中小寺院を恫喝・恐喝し、もとの宗派のままでの存続を許す代わりに上納金を納めさせて「末寺」化し、事実上支配

延暦寺は近江の大名・六角定頼の援軍を得ると、7月23日に延暦寺・六角勢が総勢6万人を動員して京都市中に押し寄せ、法華衆2万と交戦した。他方、法華衆は5月下旬から京都市中に要害の溝を掘って延暦寺の攻撃に備えていため、戦闘は一時法華宗が有利であったが、次第に劣勢になっていった。そして、27日までに延暦寺・六角勢は法華衆に勝利し、日蓮宗二十一本山をことごとく焼き払い、法華衆の3000人とも1万人ともいわれる[要出典]人々を殺害した(天文法難)。28日には、最後まで抗戦していた本圀寺が陥落している。
さらに延暦寺・六角勢が放った火は大火を招き、京都は下京の全域、および上京の3分の1ほどを焼失。兵火による被害規模は応仁の乱を上回るものであった[1]。
こうして、隆盛を誇った京都の法華衆は壊滅し、法華衆徒は洛外に追放された。以後6年間、京都においては日蓮宗は禁教となった。天文11年(1542年)に六角定頼の斡旋で朝廷から京都帰還を許す勅許が再び下り、天文16年(1547年)には定頼の仲介で延暦寺と日蓮宗との間に和議が成立した[3]。その後、日蓮宗二十一本山のうちの15か寺が再建された。
脚注編集
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注釈編集
  1. ^ 当時の日蓮宗や延暦寺などの仏教勢力は、現代人が「寺」と聞いて思い描くような平和的な集団ではなく、武装した僧兵を抱えた武装集団であり軍閥であった。そして、日蓮宗は他宗の僧侶に度々往来で因縁をつけて論破し、大きな騒ぎを巻き起こした。延暦寺などは、武力行使をちらつかせ周囲の他宗派の中小寺院を恫喝・恐喝し、もとの宗派のままでの存続を許す代わりに上納金を納めさせて「末寺」化し、事実上支配下に置いてしまうという乱暴・横暴なことを繰り返していた。
出典編集
  1. ^ a b “天文法華の乱 都市史15”. フィールド・ミュージアム京都. 京都市 (2008年). 2016年6月2日閲覧。




延暦寺などは、武力行使をちらつかせ周囲の他宗派の中小寺院を恫喝・恐喝し、もとの宗派のままでの存続を許す代わりに上納金を納めさせて「末寺」化し、事実上支配下に置いてしまうという乱暴・横暴なことを繰り返していた。




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