しかし朝廷が没落していくなかで、貴族からの支援が滞り始めました。そこで延暦寺は、寺社の運営を円滑に行うため、9世紀末から荘園の年貢を原資とした金貸しを始めました。その年利は48〜72%。貸せば貸しただけ金が増える状態となりました。やがて貴族の荘園は武士により削り取られていきましたが、神と仏の権威を背景に荘園を守り、さらに貸金で経営地盤を盤石とした延暦寺は、莫大な富を保ったまま中世を迎えたのです。すると、生活に困った貴族や武士などが、今度は延暦寺に支援を申し込むようになります。金は腐るほどあるわけですから、延暦寺はこれに応じ金を貸し、ますます収入を得ました。
金儲けの楽しさを知った延暦寺は、さらなる融資先を探すようになります。比叡山上の寺は、高貴な身分の人としか付き合いがないため融資先は限られました。そこで利用したのが、山麓の坂本にある末寺や日吉大社の神人でした。神人とは、神社に隷属し、雑役などを行った下級神職・寄人のことです。延暦寺から、さらなる融資先を探せと言われた神人は、全国にある日吉大社の分社へ行商人の姿を借り足を運び、そこで暮らす庶民に借金の営業を始めました。現在、町の中で見かけるリボ払いカードの営業所のような業務を神社が行っていたのです。もちろん年利はめちゃくちゃなままでした。
ちなみに、室町時代に頻繁に一揆の攻撃対象となった貸金業者の酒屋と土倉ですが、彼らも日吉大社の神人組織に所属しています。神人には年貢の減免などの優遇があったためです。こうして戦国時代を迎える頃には、京都にあった貸金業者の8割が比叡山の系列団体で固められていました。元々、朝廷への強訴や、防衛のために組織された軍事組織であった僧兵も、中世になると借金の取り立てに暴力を振るうようになりました。ここまで腐敗すると、戦国時代には延暦寺にまともな僧侶はほとんど残っていません。山の上の寺院は荒廃し、麓の町では僧侶が酒を飲み、妻をめとり、賭博に興じるという状況だったのです。
ドラマのクライマックスのひとつであろう光秀による延暦寺の焼き討ちは、このような事実を知っていると見方が大きく変わってくるかと思います。良くも悪くも信長が宗教権威を潰したため、日本の金融はまともに機能するようになったのですから。