これは詩篇第 14 章を指し、明らかに詩的で誇張した言葉が使われています。2 節から 3 節で、詩篇作者は「主は天から人の子らを見下ろして、神を求める賢い行いをする人がいるかどうかを見る。彼らはみな迷い、みな同じように堕落している。善を行う者は一人もいない。いや、一人もいない」と述べています。しかし、そのわずか 2 節後には、不信心な者は「非常に恐れる。神は義なる者の世代とともにおられるからだ」と述べています。ですから、義なる者は不義なる者によって迫害されているので、明らかに存在するのです。
2 つ目のヒントは、「区別がない」というフレーズです。当然、誰の間に区別があるのかと問うべきです。文脈から、それは完全に明らかです。パウロは「ユダヤ人もギリシャ人も、すべての人が罪の支配下にある」と言っているのです (ローマ 3:9)。
言い換えれば、パウロはマリア(あるいはイエス)の罪のなさについて賛成も反対も言っていません。その代わりに、ユダヤ人と異邦人の両方が福音を必要としていることを述べています。福音は「ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いを得させる神の力です」(ローマ1:16)。ですから、ローマ3:11で問題になっている「だれも」とは、部族や集団や階級の人々のことではありません。