その後、承禎は甲賀と伊賀の国人を糾合して信長に抗戦したとも、石山本願寺の扶助を受けていたとも、あるいは隠棲していたともいわれるがはっきりしていない。天正9年(1581年)4月には、長年独立を保っていた伊賀もついに信長に平定された(天正伊賀の乱)。同年、承禎はキリシタンの洗礼を受けている。
その後、承禎は天下を掌握した豊臣秀吉の御伽衆となり、秀吉が死去する前の慶長3年(1598年)3月14日に死去した。享年78。子の義治は慶長17年(1612年)、義定は元和6年(1620年)にそれぞれ死去した。承禎の位牌は嫡男・義治と共に、京都府京田辺市の一休寺にある。義治の系統は加賀藩士、義定の系統は江戸幕府旗本となった。
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