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倭寇に占める日本人の数を低くみせるために村井の理論を利用した上で、「日本人」「朝鮮人」「中国人」と国籍を強調していると批判した[33]。

村井説の教科書記載への批判
2007年の日韓歴史共通教材は、村井説が作為的に利用されているとして扶桑社の中学歴史教科書を挙げ[33]、同教科書における「(倭寇は)朝鮮半島や中国沿岸に出没していた海賊集団のことである。彼らには朝鮮人も多く含まれていた。」「16世紀の中ごろ、再び倭寇が盛んになったが、その構成員は殆ど中国人であった」といった記述について、倭寇に占める日本人の数を低くみせるために村井の理論を利用した上で、「日本人」「朝鮮人」「中国人」と国籍を強調していると批判した[33]。
村井説への批判
濱中昇は倭寇の特徴である領主制が日本には存在するが、中世の朝鮮には相当するものが存在しないため倭寇の主体を朝鮮国内には求めるのは難しいとし[34]、朝鮮の賤民が倭寇と偽って略奪を働いたとする高麗史の記録についても、倭寇の襲撃がまずあり、それから若干遅れて賎民の乱暴が発生していると指摘し、倭寇とは別のそれに乗じた泥棒の類とした[34]。また、朝鮮半島南部の海民が高麗末期の倭寇に加わっていたとしても、倭寇の主力が日本人であることには変わらないし[34]、多数の騎馬や船を擁することについては現地での略奪によってその数を増やしたともした[34]。ほかにも、村井の言う「倭」と「日本」の違いについても、朝鮮が日本を国家を意識した場合とそうでない場合(蔑視の心がある場合)との使い分け、九州地方と近畿地方の文化的な差異に過ぎないとし、「倭」と「日本」は事物の本体としては同じもので、「倭」と中世の日本は別個のものではないとした[34]。
沈仁安(北京大学教授)は、村井説のように倭寇を国境をまたぐ海上勢力とすることも全体的にみれば可能だが、13世紀から16世紀にかけて




沈仁安(北京大学教授)は、村井説のように倭寇を国境をまたぐ海上勢力とすることも全体的にみれば可能だが、13世紀から16世紀にかけて発生・形成・発展・変遷の過程・変化している倭寇を概括的に解釈することは、具体的な歴史過程を隠し、具体的な問題に対する具体的な分析の方法論の原則に符合しないと批判した[35]。また沈は、前期倭寇の主力は日本人(領主・武士・商人)であることは間違いなく[35]、後期倭寇に他国人が加わっても、主力を果たしたのではなく、倭寇の起源と活動初期は日本人と関係があるため、「日本古代の呼び方である『倭』寇命名」したと批判する[35]。また、古代の「倭」呼称が日本列島以外の地域の呼称としても使われており、「日本」とは別の概念だとする村井説に対して、沈は、千数百年以後の歴史的事実を紀元前後に形成された「倭」で解釈することは不適当とし、更に、古代中国における「倭」は日本のことであり、「『倭』『倭人』が、日本、日本人の古代の呼び方であることは、中国の学界では、疑問はない」とした[35]。
高麗前期には見られなかった「倭」という呼称が高麗後期になって現れて「日本」と併用されていることについて武田幸男は、「倭」という呼称が現れた原因は倭寇だと述べている[36]。武田は高麗が日本を国家レベルで意識、または正式な通交相手と認識した場合は「日本」とし、国家レベルで意識せず「敵対者」と認識した時は「倭」と記しているとした[36]。なお、武田は14世紀倭寇の首領の装備について「典型的な中世日本武士」だとしている[37]。
後期倭寇[編集]
後期倭寇は、中国人が中心であり、『明史』には、日本人の倭寇は10人の内3人であり、残り7人はこれに従ったものである(「大抵真倭十之三、從倭者十之七。」)と記されている[38]。
倭寇の影響[編集]
中国の明や韓国の高麗・朝鮮王朝、また日本の室町幕府に対し、倭寇は結果として重要な政治的外交的な影響力を与えた。明は足利幕府に対し倭寇討伐を要請する見返りとして





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