関口すみ子の世界へようこそ
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大久保利通と「公娼」
「御一新」(明治維新)をくぐり抜けて公娼という制度(「公娼制度」、公娼制)が作られていく過程における、近代日本創成期の指導的政治家である大久保利通(初代内務卿)の役割について検討する[1]。
1.農奴解放・奴隷解放・「芸娼妓解放」
2.公娼制の再確立
3.内務卿大久保利通・伊藤博文による公娼制の近代化
4.司法省を抑えて東京警視庁・地方官の管轄へ
5.考察
1.農奴解放・奴隷解放・「芸娼妓解放」
オールコックの『大君の都』
幕末の日本における、人身売買と遊廓等での性売買の慣行(総じて江戸時代の公娼制)は、すでにある程度知られた事実であった。大英帝国の初代駐日公使オールコック(Rutherfort Alcock)が『大君の都』(THE CAPITAL OF THE TYCOON, 1863)で厳しく批判していたからである。日本では「父親が娘に売春させるために売ったり、賃貸ししたりして、しかも法律によって罪を課されないばかりか、法律の許可と仲介をえているし、そしてなんら隣人の非難もこうむらない」、「日本では人身売買がある程度行われている。なぜなら、娘たちは、一定の期間だけではあるが、必要な法律的形式をふんで、売買できるからである。少年や男についてもそうであろうとわたしは信じている」と[2]。
したがって、ロシアでは農奴解放令(1861年)、アメリカ合衆国では奴隷解放宣言(1863年)が出される時代に「文明国」の仲間入りをするためには、人身売買に基づく性売買の慣行に対して何らかの対応が必要であるという認識は、留学生をはじめ日本の一部にははっきりとあったのである(拙著20頁)。
津田真道の「人ヲ売買スルコトヲ禁スヘキ議」
幕末に四年近くオランダに留学していた津田真道(真一郎)(刑法官権判事)は、明治2(1869)年3月、人身売買の禁止を太政官に建議した(「人ヲ売買スルコトヲ禁スヘキ議」)。
その内容は、「牛馬ニ同シウスルモノ」である「奴婢」は消失しつつあるが、「年季中ハ牛馬同様ナルモノ」である「娼妓」が今なお残っている、この「娼妓」をなくすために人の売買を禁止したい、ただし、娼妓はまだなくすわけにはいかないから(「尤娼妓ヲ無クスルコトハ未ダ出来ヌコトナレバ」)、遊廓はそのままにして、娼妓が、西洋諸州のように「所謂地獄売女」(自売の遊女、私娼)同様にふるまえばよいというものである。
つまり、津田は、人身売買・性売買政策として、人身売買(「身売り」)をなくして西洋並みにすればよいと建議したのである。言い換えれば、概して男達(知識人・政治家)は、人身売買の方はなくして──自分達が西洋で見てきたように──「自売」の遊女にすればよいだろうと考えたのである。同時に、その多くは、(人身売買の終着点としての)遊廓等そのものの解体が問題になるとは考えなかったのである。(拙著21頁)
新律綱領──「人ヲ略売シテ娼妓トスル」罪
おそらくこうした文脈で、明治3(1870)年12月に下付された刑法典・新律綱領(全192条)に、人をかどわかして娼妓に売り飛ばすことが禁じる条文が入れられた。賊盗律中に「略売人」の条が設けられ、それは、娼妓に略売する罪から始まる(「凡(およそ)人ヲ略売シテ娼妓トスル者ハ、成否ヲ論セズ、皆流二等、妻妾奴婢トスル者ハ徒二年半」)。
マリア・ルス号事件