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論・寄稿
排仏崇仏論争の虚構(2/2ページ)
國學院大講師 有働智奘氏
論2019年9月4日
3、排仏崇仏論争の虚構
この仏教伝来記事を「排仏崇仏」という論争とすることは、管見では中世までの史書でみない。「排仏・崇仏」という観点を提示する典籍の初見は、谷川士清『日本書紀通證』(1762年刊)である。国学者である谷川は、儒家の「排仏」説を紹介している。したがって、「排仏・崇仏」という用語は、近世以降の儒学、国学者による排仏意識で創られたと考えられる。例えば、平田国学の影響を受けた飯田武郷は、自著『日本書紀通釈』(1899年)において、蘇我稲目は崇仏家であって、敬神を説くはずがなく、百済に建邦之神の祭祀を教諭した事実はないと決めつけて解釈しており、後の研究者の多くがそれに則って『書紀』の神仏関係を考察していった。つまり、「仏教公伝」記事は、近代の学者が「排仏崇仏論争」と勝手に認識して名付けた歴史事件であった。
このように仏教伝来の論争は、神祇側が異教徒として排斥したのではなく、疫病をもたらした神を祓い、その神を信奉した人々を処罰したと看取できる。「排仏」という用語は、近世・近代において作られた造語である以上、仏教伝来の事象を近世、近代の攘夷思想に偏った研究者たちで形成された言語で表現することは適切ではない。古代中国や明治維新で行われた排仏は、仏教者の追放、還俗や仏教文物の廃棄、破壊行為を行い、仏教廃絶の意識で行われた「廃仏」行為であるが、その「廃仏」という行動の観念によって、古代における仏教伝来の本質を捉えてしまったのである。しかし、実際の蘇我・物部氏による対立は、渡来神の祭祀方針の議論であり、そこに「排仏」という意識はなかった。したがって、排仏崇仏論争ではなく、仏神の祭祀方法と信奉をめぐっての論争であった。