浅薄な知識ながら、意見を述べさせていただきます。 まず旧領主佐竹家への虐待についてですが、そもそも旧領主の家臣を虐待することは一例をあげるなら土佐藩で新領主の山内家が旧領主長宗我部家の家臣に厳しい身分的差別(上士と下士)を与えるなどを行ったことなどがよく知られています。 だから別に格段光圀達水戸藩の行動に問題があったとは言えないと思われます。 それ以前に、関ヶ原の対応で移封となった旧常陸領主の佐竹家が石高半減により家臣の半分を水戸に置いていったことにこの問題の淵源があると言えると思います。 さらに言えば、光圀藩主就任以前に旧領主時代からの土着民との年貢徴収における問題から村人全員を皆殺しにする生瀬騒動があったように土着民が一揆を頻発し藩政を害する部分があったことも知っておくべきです。 以上のことから推測するに、佐竹家への虐待は旧領主佐竹家が家臣を置いて行ったことを原因とし、さらに土着民が新領主の政治に影響を与える問題などから中世以来の旧勢力一掃のための行動だったと言えると思われます。 次は二番目の藩政に言及したいと思います。 まず、表高35万石を自称したのは光圀ではなく次の代の綱條であるので光圀の悪政とは言えないと思われます。 一言付け加えると、光圀は蝦夷地を直轄して石高を増やそうとしたという説もあります。 次に水戸藩窮乏の原因についてですが、これは大日本史編纂も原因ではありますが根本原因は常府制による江戸・水戸の二重出費だと思われます。字数の都合で詳しいことまでは書けませんがこれは幕末まで藩財政に影響を及ぼす制度だったと言われています。 最後に水戸の農政についてです。 簡潔に述べると年貢率は確かに高いです。これはどうしようも無い事実です。(年貢高の原因は上述) ただ、救民策として飢饉に備えて稗蔵を作ったり(これは幕末期の飢饉において大変重要な成果を及ぼした。)、借金の利息を1割以下に制限したり、紙を専売にしたり、民間向けの簡易な医学書である『救民妙薬』を刊行したりもしてます。 この他、自身の徹底的な倹約や殉死の禁止、宗旨外れの仏門徒の排斥、学問振興、身分に関わらない実力主義の人材登用(史官員だけですが)などは他藩あるいは幕府でも真似をするような時代を先取った行動だったと言えます。 本当はもっと言いたいこと(光圀の幕政批判など)もあるのですが、ここまでとさせていただきます。 最終的に黄門様の善悪を判断することは容易ではありませんが、個人的には全てではなくともある部分においては後世にも影響を与えた偉大な政治家・名君であったと言えると思います。 まぁ君臣の是非は個人で論ずるべきだと思うので皆さんが決めてください。(君臣の是非を明らかにすることは大日本史の編纂動機の一つです) 学問を振興し、質素倹約を奨励し、物事の善悪を明らかにし、尊皇精神の規範を作った黄門様に現代人もいくらか学ぶべきことはあると思われます。 未熟な学生の戯言を長文で失礼いたしました。 質問の適切な回答(黄門様が悪人の番組は知りません。すいません。)ではないかもしれませんが、黄門様の偏った悪いイメージを払拭したいと思い書かせていただきました。 多分間違いも多いと思いますが、未熟な学生の文章ですのでそこはご容赦ください。 この文書で少しでも黄門様の業績を知っていただき、水戸に興味を持っていただければ幸いです。
浅薄な知識ながら、意見を述べさせていただきます。 まず旧領主佐竹家への虐待についてですが、そもそも旧領主の家臣を虐待することは一例をあげるなら土佐藩で新領主の山内家が旧領主長宗我部家の家臣に厳しい身分的差別(上士と下士)を与えるなどを行ったことなどがよく知られています。 だから別に格段光圀達水戸藩の行動に問題があったとは言えないと思われます。 それ以前に、関ヶ原の対応で移封となった旧常陸領主の佐竹家が石高半減により家臣の半分を水戸に置いていったことにこの問題の淵源があると言えると思います。 さらに言えば、光圀藩主就任以前に旧領主時代からの土着民との年貢徴収における問題から村人全員を皆殺しにする生瀬騒動があったように土着民が一揆を頻発し藩政を害する部分があったことも知っておくべきです。 以上のことから推測するに、佐竹家への虐待は旧領主佐竹家が家臣を置いて行ったことを原因とし、さらに土着民が新領主の政治に影響を与える問題などから中世以来の旧勢力一掃のための行動だったと言えると思われます。 次は二番目の藩政に言及したいと思います。 まず、表高35万石を自称したのは光圀ではなく次の代の綱條であるので光圀の悪政とは言えないと思われます。 一言付け加えると、光圀は蝦夷地を直轄して石高を増やそうとしたという説もあります。 次に水戸藩窮乏の原因についてですが、これは大日本史編纂も原因ではありますが根本原因は常府制による江戸・水戸の二重出費だと思われます。字数の都合で詳しいことまでは書けませんがこれは幕末まで藩財政に影響を及ぼす制度だったと言われています。 最後に水戸の農政についてです。 簡潔に述べると年貢率は確かに高いです。これはどうしようも無い事実です。(年貢高の原因は上述) ただ、救民策として飢饉に備えて稗蔵を作ったり(これは幕末期の飢饉において大変重要な成果を及ぼした。)、借金の利息を1割以下に制限したり、紙を専売にしたり、民間向けの簡易な医学書である『救民妙薬』を刊行したりもしてます。 この他、自身の徹底的な倹約や殉死の禁止、宗旨外れの仏門徒の排斥、学問振興、身分に関わらない実力主義の人材登用(史官員だけですが)などは他藩あるいは幕府でも真似をするような時代を先取った行動だったと言えます。 本当はもっと言いたいこと(光圀の幕政批判など)もあるのですが、ここまでとさせていただきます。 最終的に黄門様の善悪を判断することは容易ではありませんが、個人的には全てではなくともある部分においては後世にも影響を与えた偉大な政治家・名君であったと言えると思います。 まぁ君臣の是非は個人で論ずるべきだと思うので皆さんが決めてください。(君臣の是非を明らかにすることは大日本史の編纂動機の一つです) 学問を振興し、質素倹約を奨励し、物事の善悪を明らかにし、尊皇精神の規範を作った黄門様に現代人もいくらか学ぶべきことはあると思われます。 未熟な学生の戯言を長文で失礼いたしました。 質問の適切な回答(黄門様が悪人の番組は知りません。すいません。)ではないかもしれませんが、黄門様の偏った悪いイメージを払拭したいと思い書かせていただきました。 多分間違いも多いと思いますが、未熟な学生の文章ですのでそこはご容赦ください。 この文書で少しでも黄門様の業績を知っていただき、水戸に興味を持っていただければ幸いです。