男色の対象とされた少年達は、元々は稚児として寺に入った者達である。彼ら有髪の少年は寺稚児、垂髪、渇食などと呼ばれた。こうした稚児を寵愛する風習は、奈良時代以降かなり仏教界に広まっていた。天台宗などでは僧と稚児の初夜の前に行われる「稚児灌頂(ちごかんじょう)」という儀式があり、稲垣足穂『少年愛の美学』に詳しい。灌頂を受けた稚児は観音菩薩の化身とされ、僧侶は灌頂を受けた稚児とのみ性交が許された。寺社内での男色を知る貴重な資料に、平安時代に成立したとされ、稚児灌頂について記された『弘児聖教秘伝』や、大分後のものだが京都醍醐寺所蔵の「稚児之草紙絵巻」(元享元年,鎌倉末期)などがある。奈良時代にはめぼしい男色の記録はないが、『万葉集』には大伴家持らの男性に宛てたと思われる恋愛を詠んだ和歌が多数収められている。また、奈良時代後期には孝謙天皇の皇太子に立てられていた皇族・道祖王が「先帝(聖武天皇)の喪中であるにもかかわらず侍童と姦淫をなし、先帝への服喪の礼を失した」などの理由で廃嫡に追い込まれたとの記録がある。
平安末期・鎌倉時代: 公家への広がり[編集]
平安時代末期には男色の流行が公家にも及び、その片鱗は、例えば複数の男色関係を明言している藤原頼長(平安時代末期)の日記『台記』に窺える。また源義経(平安時代末期 - 鎌倉時代初期)と、武蔵坊弁慶や佐藤継信・佐藤忠信兄弟との主従関係にも制度的な片鱗を見出す説がある。北畠親房(鎌倉時代後期 - 南北朝時代)は『神皇正統記』で男色の流行に言及しており、その頃にも流行していた証拠とされている。14世紀(鎌倉末期-室町初期)に成立したと推定されている『稚児観音縁起』には稚児と僧の関系が描かれている。
室町時代:武士の男色[編集]
「衆道」も参照
平安末期には武士社会は台頭していたが、中世室町時代には武士の間で男色が盛んになり、その主従関係の価値観と重ね合わせられた。後にこの関係は「衆道」と呼ばれる(後述)。
三代将軍・足利義満は能役者の世阿弥が少年だった頃、彼を寵愛した。この二人の男色関係は芸能の発展において多大な影響を与えたとされている。また六代将軍・足利義教は赤松貞村という武士を愛して領地を加増した。その後、同族の赤松満祐にこれを不満に思われたことも理由の一つとなり、義教は暗殺される[4]。八代将軍・足利義政は有馬持家、烏丸資任ら寵童を側に置いた。その他の武士にも男色を風雅の道として行う者がいた[4]。
この時代に成立した能や狂言には男色がとても多く取り入れられており、代表的なものに『菊慈童』、『花月』などがある。また『幻夢物語』、『嵯峨物語』、『鳥辺山物語』などの稚児物語が多くつくられ、内容は公家や寺院におけるものが多くを占める。これは物語をつくる能力が公家らに独占されていたからだとされ[5]、武士の間で男色が少なかったことを意味しない。
戦国時代:戦国大名の家中における男色[編集]
戦国時代の随筆「梧窓漫筆」に、「戦国の時には男色盛んに行なはれ、寵童の中より大剛の勇士多く出づ」 とあるように、戦国時代には武士の男色がますます盛んになったといわれ[4]、戦国大名が小姓を男色の対象とした例が数多く見られる。織田信長(1534年)と前田利家・森成利(蘭丸)[6] の例は有名だが、他にも、武田信玄(1521年)と姓不詳の小姓・源助(信玄は源助に対し別の小姓・弥七郎との関係を否定する起請文を提出している[7][注記 1])、上杉景勝(1556年)と清野長範[8]、伊達政宗(1567年)と片倉重綱・只野作十郎(政宗から浮気を疑われた作十郎は疑いを晴らす為、自ら腕を刀で突き血でしたためた起請文を送っている)[9][10]、豊臣秀次(1568年)とその美貌が後世まで語り継がれる不破万作[4] などが有名な例として挙げられる。武士道と男色は矛盾するものとは考えられておらず、後の江戸時代中期に出された武士道について説いた『葉隠』にも、男色を行う際の心得を説く一章がある。
1549年に来日したフランシスコ・ザビエルは日本人を賞賛しながらも、許すことができない罪悪として男色を挙げ、ザビエルを保護し布教を許した山口の大名、大内義隆がもつ美少年の数の多さに驚き嘆いている[4]。大内も当初はザビエルに男色などを非難されたことに立腹し、布教の許可は下さなかった。また天正7年(1579年)に初来日したイタリア宣教師、アレッサンドロ・ヴァリニャーノは、日本人に見られる罪悪は色欲に耽ることだとして、特に男色については、「彼らはそれを重大なことと考えていないから、若衆たちも関係のある相手もこれを誇りとし、公然と口にし、隠そうとはしない」と書いている[11]。時代は江戸初期に跨るが元和5 (1619)年に来日したフランソワ・カロンも、「貴族の中には僧侶並に男色に汚れている者があるが、彼らはこれを罪とも恥ともしない」と言っている[12]。
江戸時代前期:衆道の確立、男色文化全盛へ[編集]
「衆道」および「陰間茶屋」も