「社会福祉士」の独り言Ⅱ-日々の雑感

福祉に関わる事柄の他、日々感じたことを書き綴っていきます。

富山から帰仙転倒プチトラブル

2024-08-25 12:57:41 | 仕事

葬儀を終えて北陸→上越→東北新幹線で帰仙途中大宮駅で転倒指定列車に乗り遅れるトラブル。ホームに上がる階段で前のめりに倒れてしまった。視野に走り過ぎて行く車輛が映ってきた。幸い次号がありそれに乗り込む。前席指定で空席0デッキにいて過ぎ去る夜景をぼんやりと見ながら過ごす。転倒の原因は履き慣れない靴と両手にバッグだと思った。今後はズックと背負いバッグにしよう。最近自宅でも階段での踏み外しが数回あった。幸い今回は怪我は なかったがよくよく注意用心したい。


実弟の逝去

2024-08-24 04:16:44 | 日記

実弟の逝去のため富山県高岡市に来ている暑さが極めて厳しい。体温以上の気温は初めての体験。明日葬儀、浄土真宗で執り行なわれる。自身の家族は,父母兄弟5人ですが残されたのは弟と2人だけとなった。


就労継続支援b型事業所利用に向けて

2024-04-18 05:19:17 | 仕事

介護保険サービス通所リハの利用にさらに就労継続支援b型を利用すべく保健福祉手帳を申請し

交付(2級)されたので利用先をリサーチしている


更新ままならず

2023-09-21 14:02:45 | 日記

リハビリのため投稿、更新と1年前にしていながらそのまま。この夏の暑さの異常さもあってか気力が出ない日々。このgooもそのままにしていたらなにやら設定がうまくいかない。


1年ぶりの更新です。

2021-10-17 16:40:37 | 日記

昨年12月にウォーキング中に脳血管の疾患で倒れ救急車で搬送され脳神経外科の病院へ入院。半身麻痺になり1ケ月入院。年末年始を病院で過ごし新年明けに、リハビリ専門病院へ転院。そこで約2ケ月入院。麻痺の症状はだいぶ改善されましたが、退院後、介護保険サービスの利用が必要だろうと認定調査を受けたところ介護要介護1とのこと。帰宅後、通所リハビリを利用することになりました。その後検査で、疾患が指定難病であることが最終的に診断され制度利用の申請をしました。以上のこといろいろあり、1年近くブログを更新していませんでしたが、リハビリのつもりでまた再開したいと思います。高次脳機能障害もあるため、10年ほど務めさせてもらいました成年後見人の辞任申し立てをしました。今月は、この報告の取りまとめに追われていますが、なかなか頭が働きません。

 

 

 


刑部芳則(おさかべ・よしのり)著 『古関裕而―流行作曲家と激動の昭和』 中公新書 2019.11.25

2020-11-30 13:49:04 | 読書

著者は、1977年生、日大商学部准教授、専攻は日本近現代史。古関裕而の曲との出会いは、中学3年生(1995年)の時に聞いた『日本の軍歌』の一曲目にあった「露営の歌」。これに衝撃を受け昭和10年代の流行歌を、蓄音機とSPレコードで聞くほどにのめり込む。それがきっかけで、昭和史の研究に進むことになった。今回、NHKの朝ドラの風俗・考証をされている。帯に、「昭和史の光と影」とあるが、時代に求められるまま、作曲を続けた古関の生涯を、詳細な資料に基づいて(最後40頁)著している。

1.福島在住の頃。古関は、音楽学校で教育を受けてはいない。買い与えられた玩具のピアノ、父の蓄音機で聴いた楽曲、音楽教育に熱心だった小学校教師との出会い、それらが、音楽への才能を開かせる。福島商業学校、川俣銀行行員時代。ハーモニカの演奏活動の傍ら、作曲を独学。仙台に通い、金須嘉之進(きすよしのしん)より和音法を学んでいる。楽曲を送り続けていた山田耕作の紹介でコロンビアの専属作曲家になるため上京。昭和恐慌後の不安な世相の中で、同じ専属作曲家の古賀政男が、数々のヒット作を生み出す反面、古関は、うまく出せず、地方小唄、ご当地ソング等でかろうじて会社との契約をつなぎ留められていた。しかし、その間も、西洋音楽は学び続け、帝国音楽学校菅原明朗(すがわらめいろう)に教えを受けている。

2.日中戦争と作曲家としての飛躍満州への旅行の帰路、新聞で懸賞募集で入選の「進軍の歌」の歌詞を偶然読み、車中で作曲。これが、レコード会社の思惑と合致し「露営の歌」(勝ってくるぞと勇ましく~)として大ヒットする。これをきっかけに、陸軍省が制作した愛馬思想普及を目的とした映画『暁に祈る』(ああ、あの顔で、あの声で~)の主題歌等、政府、軍部からの曲の依頼が増え、それに伴い、中国戦線へ慰問団に参加する。

3.アジア・太平洋戦争と戦時歌謡開戦と共に、JOAKは、ニュース歌謡として、大本営の戦果の発表ごとに、作詞・作曲をし、放送に流す番組を制作。JOAKによるシンガポール、ビルマへの慰問団にも参加。18年、映画『決戦の大空へ』の主題歌「若鷲の歌」(若い血潮の予科練の~)の作曲。文壇の火野葦平と共に、インパール作戦の特別報道班に参加。19年ラングーン、サイゴンと回る。終戦時、福島市の疎開先から、JOAKの仕事に戻る際、新橋駅で終戦を知るが、作詞家の西條八十が、戦争犯罪人名簿に載せられたと知り、断罪を恐れ、しばらく福島で過ごす。

4.戦後の長崎の鐘以降の作曲活動。昭和20年11月東京に戻り、翌年、3月からラジオ歌謡の作曲に取り組んでおり、その後、劇作家菊田一夫との二人三脚で、戦後、映画、舞台と数々の曲を作曲していく。ラジオドラマ『鐘の鳴る丘』、『君の名は』。舞台音楽では、井上靖『敦煌』『蒼き狼』、林芙美子『放浪記』。映画音楽『モスラ』。阪神、巨人軍の応援歌。オリンピックマーチ。ラジオ番組の『ひるのいこい』は、現在も続く。                                                             5.努力する天才作曲家古関は、音楽学校へは、進学出来なかったものの、西洋音楽を目指し学び続けたが、この素養が、流行歌の作曲家と相入れないものとなった。しかし、戦争によって、それが戦時歌謡とし受け入れられ、さらに、敗戦後もたらされた芸術文化の自由が、彼の天賦の才能をさらに広げていった。戦争中の作曲活動が、国民の戦意高揚につながった。そのことについては、古関は、あまり発言していない。しかし、「長崎の鐘」にあるように、鎮魂を込めた曲を「鐘」をキーワードに作曲をしている。これに関係し、福島時代、実家の斜め向かいに、福島新町教会があり、その鐘の音を毎日聞いていただろうという古関の友人の言葉を紹介している。文中の次のエピソードも興味深い。音楽を監督した日本初の長編アニメーション「桃太郎海の神兵」を、空襲跡で、手塚治虫が見て感動した。東宝撮影所に、進駐軍部隊が見学した時、フィリッピン決戦の歌をお愛想で流したが、「いざ来い、ニミッツ、マッカーサー、出てくりゃ地獄へ坂落とし」の所で、日本語がわからない将校は、歓迎の曲だと勘違いし大喝采を送った。最後の病床にあってリムスキー・コルサコフの交響曲「シェエラザード」、スメタナのモルダウを聞き続けていたという。青年時代に、教えを受けた金須は、ロシア正教徒で、帝政ロシア時代に、ペテルブルグに留学、コルサコフより教えを受けていた。東京でも、合唱団の有志と一緒に菅原よりコルサコフのテキストで和声法を学んでいる。この直向きさは、正に「努力する天才」だったと理解した。生涯5000曲に渡る作曲をしているが、記憶に残るメロディーが、古関裕而の曲だったのか改めて知ることになった。

 


今年は、特別な夏だった

2020-10-12 04:00:35 | 日記
2年越しとなった家屋、土地問題に取り組んでいた最中に、突然、母の入院、手術という事態が生じた。最初の事柄は、登記簿上のことも完了。その間、病院での面会、諸事の引き受け、退院後の介護サービス利用に向けた手続き、手配と目まぐるしく動いていた。この夏には、いったん終息に向かうと予想していた新型コロナウィルス。これについては、病院で、 発熱者以外でも、県外移動者を厳しく制限したため、結局、秋田に滞在を続けることになった。最初の問題は、全て解決。取り敢えず、母の健康、介護にあたるのが当面のこととなった。先月末に、仙台に戻ったが、今日からまた秋田へ行く。

測量作業の立会い

2020-06-19 18:41:07 | 仕事
昨年8月に続き、今年4月に解体工事を終えた跡地を、売却をすることになった。不動産業者に依頼、ようやく目処が立ちつつある。昨日は、境界確定のための、土地家屋調査士の先生の測量作業に立ち会わせてもらい図面でしか見えなかった実際を学ばせていただいた。結果、片側の敷地の境界と目していたブロックのズレが判明。既存のものの撤去と再度の積み工事が必要となった。居住者との明渡し交渉から始り、2年越しとなったこの案件。全て終わるまで、もう2~3ケ月かかるようだ。過去にも、町役場の方と、山林の奥深く出向いた国土調査、土地区画整理事業に伴う換地案件、空き家の解体と売却など、仕事上で、勉強をさせてもらったが、今回の件が、これだけ長くなるとは、予定外だった。

カミュ著『ペスト』 新潮文庫 1969.10

2020-04-23 02:41:01 | 読書
新型コロナウイルスの感染が拡大する中、増刷され100万部となったと言う。しかし、なかなか購入出来ず、秋田でようやく1冊見つけることが出来た。北アフリカのオランという港湾都市にペストが発生、都市封鎖される。感染拡大で、死亡増える中、ペストと闘う医師リユーと彼に関わる一群の人たちを描く。こどもの死、惨禍の下で闇商売で利益を得る者、志願し発症者の保護や手当に立ち働く人々。内容は、ペストとの闘いだが、カミュは、対独レジスタンスに参加経験があったが、闇取引の連絡や強制収容所的な所の描写など、そこでの活動での実体験が反映されているように見えた。都市封鎖が解かれた日。花火が打ち上げられ、街は歓喜に包まれる。その光景は、先の武漢の光景とつながった。「ペスト菌は決して死ぬことも消滅することもない・・・」と最後の文章にあったが、将来を暗示するものと受け止められた。カミュのテーマは、「不条理」の思想と言われているが、オランの人々を襲ったペストの惨禍。この「不条理」の状況にどう向き合うのか。今、ここで起きていることと重なってくると思えた。







2020年の桜

2020-04-22 03:16:40 | 日記
3月の末から、所用で仙台ー秋田を、往復している。先日16日、穏やかな晴天になったので千秋公園の桜を見に行ってきた。市内で、新型コロナの感染者が増えたこともあり、当初、飲食禁止等の制限を 設けて開かれる予定の桜祭も、 中止。しかしながら、日中は、少ないながらも、散歩がてらに訪れる人たちはいたようだ。40年前に、一時期、通勤した公園入口にあった県民会館の解体工事も終わりに近いようで、建物はほぼ全てなくなってしまっていた。