山へのバスは、市街地と違って一日に何往復もない。一便乗り損ねると、何時間待ち、という事もある。下手をすると最終便に乗り遅れる事だってある。
そんな時、ヒッチハイクを何度が利用した。親指を立て、とりあえず、車に停まってもらう。停まってくれたら、『どこどこまで行きたいが、乗せてもらえませんか』と交渉する。決してきれいとは言えない状態なので、停める車もスマートな車は遠慮する。多くは気のいいおっちゃん、兄ちゃん達だった。トラックの荷台に数人載せてもらった事もある。(昔はそれでもOKだった?)
登山口が車の往来の多い幹線道路沿いにあれば、停まってくれる車もある。ところが、奥に小さな集落しかないような所は、車がほとんど通らない。最終便前までの下山が必須条件である。
ニ回生の11月、次年度のリーダー養成の意味合いもある秋合宿があった。それに先立ち、後輩一人を連れて、計画した山行の偵察(コース確認)に行った事がある。ある程度、経験も積み、読図にも慣れてきた頃、予めそれなりに情報も仕入れての偵察であった。そろそろ下山という段になったところで、痛恨のルートミスをおかす。道と思っていたところが獣道で、元に戻る道を見失い、完全に迷う。地図とコンパス(方位磁石)で自分の位置を確認しようとするが、特定できない。とにかく高度を下げれば、里に出られるはずだと考えたのが、大間違いだった。降りていくと沢沿いになり、地面が湿っているのに加え、大量の落ち葉で、滑っては転び、尻もちを何度も繰り返しながら下っていく。斜面は急になる。更に谷を流れる川が滝や崖となり、行き場を失う。無理に降りたら怪我をする。『秋の日はつるべ落とし』、見る見るうちに暗くなり、流れる水が懐中電灯の光を反射して光っていた。
『遭難』という二文字が頭をよぎり、死の恐怖も感じた。引き返すしかない。
迷った時の鉄則は『沢に降りるな、尾根に向かえ』そして、登山道に戻ること。
ようやく本来の道に戻り、更に滑ったり転んだりを繰り返しながら、何とか下山。
里に下りたものの、日はとっぷり暮れ、最終のバスはとっくに出ている。ヒッチハイクをするしかないが、車が通る気配はない。最寄りの集落まで行って、何とか帰る方法を探すしかないと、歩いていたところ、後方から、車のライトが私達を照らしながら近づいてくる。これを逃す手はない。親指立てて腕を伸ばして、なんてやっていられない。ほぼ通せんぼ状態で必死の思いで手を振り、停まってもらった。中年のおじさんが運転する、白いセダンだった。
道に迷って遭難しかけたこと、最終のバスに乗り遅れて帰る手段の無いことなど伝え、乗せていただけないかと必死の思いで頼むと、快く乗せて下さった。後部座席のシートには白いカバーがかけられていた。今でもその光景を思い出す。私達のズボンは泥まみれである。言いかけた言葉を飲み込みながら乗り込む。朝から一日中歩き、遭難しかけ、精神的にもクタクタになっていた私達は、座ったとたん、安堵感と共に眠りに落ちた。市街地に着き、降りる直前まで爆睡だった。
おじさんに感謝の言葉を伝え、見送った。今更、後部座席の状況を口にできなかった。その後、自宅に帰り、泥まみれの後部座席のシートを見たおじさんはどう思っただろうか。
あの時、怒られても事実を伝え、謝るべきだった。乗る前に、正直に伝えるべきだった。
何十年経った今も、良心の呵責が小さなトゲのように残っている。