ここはとある百貨店。
その一部門・呉服売場では、夏の一大商戦に向けての準備が日々進められていた。
久保雄介(くぼ・ゆうすけ)は今年から高級呉服から浴衣へと担当が配置換えされ、新たな売場運営に意欲を燃やしていた。
雄介がこの百貨店に入社したのは今から10年前。
呉服のゴの字も知らない状態で配属され、反物を巻くところからスタートしたその販売員人生だったが、いつしか富裕層客に高級呉服を売ることに慣れてしまっていた。
そんなとき、ふいに訪れた人事異動で浴衣売場担当に。
雄介は、これまでの決まりきった顧客への計画的な販売から、不特定多数の一般顧客へのアプローチというまだ見ぬ世界に、相当のワクワク感を感じていた。
今、雄介は自らのキャリアの新たな一歩を踏み出そうとしているのだ。
**********
「久保主任! 今年の撮影用商品が届きました!」
ひとりの若い女性社員がダンボールケースを持ってきた。
「お、来た来た! 今年は結構面白い柄が多かったからな~」
部下の女性社員とともにケースを開ける雄介。と、中には色とりどりの浴衣や帯、小物類などが犇めいていた。
「あ、私が見たヤツ!」
そう言って、一枚の浴衣を取り出して広げる女性社員。
浴衣商戦というのは大体4月から8月にかけてだが、その仕入れは毎年冬場に行われる。
1月から2月にかけて各メーカーが試作品の展示会を行い、百貨店や専門店のバイヤーがそこに群がる。そして仕入計画に基づいて各商品を選定し、メーカー側は各百貨店や専門店の要望数をもとにして大量生産に入る。
もちろん、製作するメーカー側にも思惑があり、リクエストされた通りの数をつくるわけではない。
従って、力の弱い店は要望通りの商品が来ないこともあり、そこは毎年の売上数値が顕著に翌年に反映するところなのだ。
雄介のいる百貨店では、売場主任でありバイヤーでもある雄介とともに、ターゲット層に近い若い女性社員を仕入れに同行させ、彼女の意見も大きく取り入れている。
若い社員にとって、やはり自分が選んだ商品が入荷してくるのは嬉しいもの。しかし、それが必ず売れるとは限らないので、雄介としては彼女の意見を尊重しつつも予算と在庫、売場面積と展開方法全てを頭に入れて調整しなければならないわけだ。
「よし、行くか!」
今日はシーズンに先駆けて行われる、今年の浴衣カタログに載せる商品の選定会議が行われる日。
この会議にも雄介は若い女性社員も帯同させ、担当業務の意義を体感させようとしている。
会議室の大きな机上に撮影候補の商品をズラリと並べながら、雄介がカタログのコンセプトを説明する。
「……というわけで、今年はドレッシー、アンティーク、アバンギャルド、ベーシックと4つのテイストに分けて紙面構成し、メンズと小物は別撮りという形でいこうと考えております」
雄介の出した企画書を睨みながら、商品にも順次眼を移していく販売推進部や宣伝部の担当者たち。
カタログというものは、当然ながら売場の意向だけで作れるものではなく、会社としての方針を前提に、全体的な部門の位置付けに基づいた会社の予算内で製作するわけなので、まずは会社側を説得することが第一関門なのである。
雄介の説明に、幾人かの担当者はフムフムと頷いて商品を手に取りはじめたが、年配の役員である師岡本部長から苦言が呈せられる。
「横文字にする必要があるのか? 和商材の浴衣には合わんよ。……もっと分かりやすい表現にしなさい」
「や、でもこれは流行を踏まえたキーワードなんですよ! 浴衣というのは、和の商材とは言え夏のトレンドファッションです。そこに洋を取り入れるのは自然の流れですよ? 事実、商品の特徴にも洋のテイストがたくさん入ってきてます!」
「……そんなことは聞いていない」
そう言って師岡本部長は席を立ち、会議室を出ていかんとする。
「ちょ……、ちょっと待ってください! 若い人に分かりやすく売っていくためにはこの構成が一番……!!」
雄介の懇願も空しく、師岡本部長は黙って会議室から出ていく。
「……久保主任。仕方ないですよ、僕らにできる範囲でやりましょう」
販売推進部の男性社員が陽介をなだめる。
「クッソ!」
思わず悪態をつきつつ、ガタンと椅子に座り直す雄介。その様子を、部下の女性社員が不安そうな目で見る。
部下の視線に気づいた雄介は、慌てて気を取り直し、笑顔で説明を続ける。
「じゃ……じゃあ、ひとまず商品を選びましょう! どっちみちテイスト別には分けなきゃいけないし、細かい表記の件はまた後で……」
***
売場に戻り、余った商品を片付ける雄介。
一緒に片付けをしながら、部下の女性社員が膨れた表情で愚痴る。
「主任! あの人何なんですか!? 私たちはお客さんのために考えてるのに……」
「まあ、偉いさんなんてあんなもんさ。『お客様満足第一主義』とか言ってっけど、上の方は自分たちの満足第一主義って感じだな」
「なんか……、それが会社かと思うと、切なくなりますね……」
女性社員の不満げな表情が、悲しげにに変わっていく。
雄介もまた、様々な事情を考え合わせては暗く沈んでいくのであった……。
**********
そして、夏本番も間近の6月!
浴衣の本格シーズンに突入し、雄介の売場でも日々来客数が増加してきた。
心配された浴衣カタログも好評の内に配布されはじめ、売場のレイアウトも予定通り4つのテイストに分けてゾーンを形成、それぞれにマネキンを設え、日々販売員全員で協力してコーディネイト提案をしていた。
売上状況も悪くなく、予算達成に向けて全員一丸となった姿勢が売場を盛り上げていた。
そんな折、雄介は突然宣伝部に呼び出された。
商談ルームに入る雄介。
「失礼します!」
そこには、宣伝部の主要メンバーに加え、先般のカタログ会議で苦言を呈した師岡本部長の姿もあった。
「久保主任、実は什器のことで少しお願いがあるんだ」
切り出したのは、宣伝部の柏田課長だった。
「何でしょうか?」
「浴衣売場のマネキンのことなんだ。実はね、師岡本部長のお嬢様が、このたび大学の造型コンテストで金賞をお取りになってね、その受賞作を小鳩マネキンさんがコラボして新しいマネキンをつくったんだ。……でね、それを浴衣売場で使ってほしいんだよ」
そう言って柏田課長は、雄介にマネキン人形の写真を見せる。
「……え?」
写真を見た雄介は思わず絶句した。
それは、アニメ顔という言うにはあまりにマネキン体型に似合わないもので、一体どんなものを着せれば似合うのか全く想像できないようなシロモノであった。
「いやあ。可愛らしいマネキンじゃないですか! 久保主任、今週中には搬入できる見込みなので、ぜひ使ってやってくれたまえ」
「……いや。でもその……、これは……」
言いかけた雄介の隣で、宣伝部呉服担当の夏野美雪(なつの・みゆき)がコホンと一つ咳払いする。
「え? 何か問題あるかい?」
「いえいえ! とても可愛いと思います。早速、この後久保主任と打合せいたします」
恍けた言動の柏田課長に、美雪がにこやかに返答する。
「そうかそうか。じゃ、よろしく頼むよ」
そう言って柏田課長は師岡本部長に軽く会釈すると、二人は余裕の表情で商談ルームから出ていった。
部屋に残ったのは、雄介、美雪、そして宣伝部の数人。
師岡本部長と柏田課長が離れていったことを確認し、雄介が美雪に食ってかかる。
「どういうことですか!? 夏野さん! こんなヘンテコなマネキン、使えるわけないでしょう!?」
「……すみません久保主任。こればっかりは……、どうしようもないんですよ」
雄介に頭を下げつつ、諦観した表情となる美雪。
「久保主任。夏野さんも最初は断ってたんですが、何しろ師岡本部長のお嬢様ということで、誰も文句が言えなかったんですよ」
「課長も本心ではハラワタ煮えくり返っていると思いますよ? センスの良さは抜群ですから」
「ま、長いものに巻かれる姿勢も抜群ですけど」
口々に愚痴る宣伝部の面々。と、美雪が改めて陽介に懇願する。
「そういうわけなんです。久保主任、無理を承知で、何とか使ってみてください。お願いします」
「いや、お願いしますっつっても、この顔に何着せるんですか? 洋服でも合わないんじゃないですか?」
「確かに……」
返す言葉がない宣伝部の面々。
「……と言っても、やるしかないワケですよねぇ。分かりました。……しっかし、ホント何着せりゃいいんだろ」
「ありがとうございます、久保主任。あなたなら分かってくれると思ってました」
美雪が素直に雄介に感謝の微笑みを送る。その美しさに、思わずドキッとする雄介。
「……ん、ああいやあ! ま、俺はいいですよ。でも、他の社員や販売員さんたちのモチベーションが下がらないかが、一番心配なんだよなあ……」
*****
そして運命の週末、件のマネキンが浴衣売場のバックヤードに搬入されてきた。
「うわあ……」
「……マ・ジ・か」
現物を目の当たりにし、マネキン着付けを担当する者たちが呆然とする。こいつは写真で見るより遥かに難敵だ。
「どうした!? お前らの腕の見せ所じゃんよ! ……つっても無理だよな、ウン」
皆を励まそうにも励まし切れない雄介。
しかし、もうサイは振られたのだ。この恐るべきマネキンに売場構成のテイストを崩さないコーディネイトをして、明日からしばらく店頭でお客さんの目に触れさせなければならない。
溜め息をつきながらマネキンに浴衣を着せていく女性社員や販売員を見ながら、雄介はお客さんの失望する顔や、ライバル店のバイヤーが呆れる顔などが次々と浮かび、思わず天を仰ぐのであった……。
**********
浴衣売場にトンチンカンなマネキンが仲間入りして1ヶ月。売上数値は目に見えて落ちていった。理由は明らかだが、それについては何を言ってもはじまらない。
何とか持ち直す方法を雄介が考えあぐねていたところへ、またしても会社側からテコ入れと称した横槍が入った。
それは今年の売場のコンセプトをまるで無視したかのような、先祖返り的ファッションショーの実施。
似たり寄ったりな柄の浴衣に、似たり寄ったりのコーディネイト、それを『今年の浴衣売場が自信を持ってオススメします!』などと謳われてやられた日には、これまで見てくれていたお客さんは果たしてどう感じるのか?
そうした思想は、どうやら会社の上層部にはないらしい。そのことを雄介は、一週間後さらに思い知る。
突如売場に配布されたDVD。そこには、時代遅れとしか思えない昔ながらの『お祭り風景』が収録されていた。
無論、お祭りが好きな人は世の中にはたくさんいるし、そのために浴衣を買うという風習もまだまだある。
しかし、今や夏のトレンドファッションとしての『流行商品』へと進化した浴衣を、今更30年前に戻してどうするんだという気持ちが、雄介をはじめ売場の誰もが感じていた。
そして、止めとばかりにやってきた運命の日。
休日明けで出社した雄介は、バックヤードに3セットの浴衣一式が無造作に置かれているのを見て首を傾げた。
「これは確か……総合入口のエレベーター前ディスプレイ・スペースに陳列していたヤツじゃないか。何でこんなとこに?」
と、そこへ部下の女性社員が出勤してきた。
そして、雄介の顔を見るなり泣き顔で走り寄ってきた。
「久保しゅに~~~~ん!!」
「おい、どうしたんだ!」
「どうしたもこうしたもないです! 昨日、師岡本部長が『いつまで浴衣なんか飾ってるんだ!』とか言って、共用ディスプレイの陳列がみんな強制撤去させられちゃったんです~~~!!」
「何だって!?」
ひとまず確認の必要がある。
雄介は総合入口エレベーター前のディスプレイ・スペースへと走った。
と、そこには『SALE』と胸に書かれた赤いTシャツが3枚、何の装飾もなくトルソーに着せられていた。
「……ざけんなっ! まだこれからデッカい花火大会が2つもあんだぞ? 今が売り時じゃねーか! こんなひでーことあっかよ!!」
激しく憤った雄介は、そのまま宣伝部の事務所へと雪崩れ込んだ。
<つづく>
その一部門・呉服売場では、夏の一大商戦に向けての準備が日々進められていた。
久保雄介(くぼ・ゆうすけ)は今年から高級呉服から浴衣へと担当が配置換えされ、新たな売場運営に意欲を燃やしていた。
雄介がこの百貨店に入社したのは今から10年前。
呉服のゴの字も知らない状態で配属され、反物を巻くところからスタートしたその販売員人生だったが、いつしか富裕層客に高級呉服を売ることに慣れてしまっていた。
そんなとき、ふいに訪れた人事異動で浴衣売場担当に。
雄介は、これまでの決まりきった顧客への計画的な販売から、不特定多数の一般顧客へのアプローチというまだ見ぬ世界に、相当のワクワク感を感じていた。
今、雄介は自らのキャリアの新たな一歩を踏み出そうとしているのだ。
**********
「久保主任! 今年の撮影用商品が届きました!」
ひとりの若い女性社員がダンボールケースを持ってきた。
「お、来た来た! 今年は結構面白い柄が多かったからな~」
部下の女性社員とともにケースを開ける雄介。と、中には色とりどりの浴衣や帯、小物類などが犇めいていた。
「あ、私が見たヤツ!」
そう言って、一枚の浴衣を取り出して広げる女性社員。
浴衣商戦というのは大体4月から8月にかけてだが、その仕入れは毎年冬場に行われる。
1月から2月にかけて各メーカーが試作品の展示会を行い、百貨店や専門店のバイヤーがそこに群がる。そして仕入計画に基づいて各商品を選定し、メーカー側は各百貨店や専門店の要望数をもとにして大量生産に入る。
もちろん、製作するメーカー側にも思惑があり、リクエストされた通りの数をつくるわけではない。
従って、力の弱い店は要望通りの商品が来ないこともあり、そこは毎年の売上数値が顕著に翌年に反映するところなのだ。
雄介のいる百貨店では、売場主任でありバイヤーでもある雄介とともに、ターゲット層に近い若い女性社員を仕入れに同行させ、彼女の意見も大きく取り入れている。
若い社員にとって、やはり自分が選んだ商品が入荷してくるのは嬉しいもの。しかし、それが必ず売れるとは限らないので、雄介としては彼女の意見を尊重しつつも予算と在庫、売場面積と展開方法全てを頭に入れて調整しなければならないわけだ。
「よし、行くか!」
今日はシーズンに先駆けて行われる、今年の浴衣カタログに載せる商品の選定会議が行われる日。
この会議にも雄介は若い女性社員も帯同させ、担当業務の意義を体感させようとしている。
会議室の大きな机上に撮影候補の商品をズラリと並べながら、雄介がカタログのコンセプトを説明する。
「……というわけで、今年はドレッシー、アンティーク、アバンギャルド、ベーシックと4つのテイストに分けて紙面構成し、メンズと小物は別撮りという形でいこうと考えております」
雄介の出した企画書を睨みながら、商品にも順次眼を移していく販売推進部や宣伝部の担当者たち。
カタログというものは、当然ながら売場の意向だけで作れるものではなく、会社としての方針を前提に、全体的な部門の位置付けに基づいた会社の予算内で製作するわけなので、まずは会社側を説得することが第一関門なのである。
雄介の説明に、幾人かの担当者はフムフムと頷いて商品を手に取りはじめたが、年配の役員である師岡本部長から苦言が呈せられる。
「横文字にする必要があるのか? 和商材の浴衣には合わんよ。……もっと分かりやすい表現にしなさい」
「や、でもこれは流行を踏まえたキーワードなんですよ! 浴衣というのは、和の商材とは言え夏のトレンドファッションです。そこに洋を取り入れるのは自然の流れですよ? 事実、商品の特徴にも洋のテイストがたくさん入ってきてます!」
「……そんなことは聞いていない」
そう言って師岡本部長は席を立ち、会議室を出ていかんとする。
「ちょ……、ちょっと待ってください! 若い人に分かりやすく売っていくためにはこの構成が一番……!!」
雄介の懇願も空しく、師岡本部長は黙って会議室から出ていく。
「……久保主任。仕方ないですよ、僕らにできる範囲でやりましょう」
販売推進部の男性社員が陽介をなだめる。
「クッソ!」
思わず悪態をつきつつ、ガタンと椅子に座り直す雄介。その様子を、部下の女性社員が不安そうな目で見る。
部下の視線に気づいた雄介は、慌てて気を取り直し、笑顔で説明を続ける。
「じゃ……じゃあ、ひとまず商品を選びましょう! どっちみちテイスト別には分けなきゃいけないし、細かい表記の件はまた後で……」
***
売場に戻り、余った商品を片付ける雄介。
一緒に片付けをしながら、部下の女性社員が膨れた表情で愚痴る。
「主任! あの人何なんですか!? 私たちはお客さんのために考えてるのに……」
「まあ、偉いさんなんてあんなもんさ。『お客様満足第一主義』とか言ってっけど、上の方は自分たちの満足第一主義って感じだな」
「なんか……、それが会社かと思うと、切なくなりますね……」
女性社員の不満げな表情が、悲しげにに変わっていく。
雄介もまた、様々な事情を考え合わせては暗く沈んでいくのであった……。
**********
そして、夏本番も間近の6月!
浴衣の本格シーズンに突入し、雄介の売場でも日々来客数が増加してきた。
心配された浴衣カタログも好評の内に配布されはじめ、売場のレイアウトも予定通り4つのテイストに分けてゾーンを形成、それぞれにマネキンを設え、日々販売員全員で協力してコーディネイト提案をしていた。
売上状況も悪くなく、予算達成に向けて全員一丸となった姿勢が売場を盛り上げていた。
そんな折、雄介は突然宣伝部に呼び出された。
商談ルームに入る雄介。
「失礼します!」
そこには、宣伝部の主要メンバーに加え、先般のカタログ会議で苦言を呈した師岡本部長の姿もあった。
「久保主任、実は什器のことで少しお願いがあるんだ」
切り出したのは、宣伝部の柏田課長だった。
「何でしょうか?」
「浴衣売場のマネキンのことなんだ。実はね、師岡本部長のお嬢様が、このたび大学の造型コンテストで金賞をお取りになってね、その受賞作を小鳩マネキンさんがコラボして新しいマネキンをつくったんだ。……でね、それを浴衣売場で使ってほしいんだよ」
そう言って柏田課長は、雄介にマネキン人形の写真を見せる。
「……え?」
写真を見た雄介は思わず絶句した。
それは、アニメ顔という言うにはあまりにマネキン体型に似合わないもので、一体どんなものを着せれば似合うのか全く想像できないようなシロモノであった。
「いやあ。可愛らしいマネキンじゃないですか! 久保主任、今週中には搬入できる見込みなので、ぜひ使ってやってくれたまえ」
「……いや。でもその……、これは……」
言いかけた雄介の隣で、宣伝部呉服担当の夏野美雪(なつの・みゆき)がコホンと一つ咳払いする。
「え? 何か問題あるかい?」
「いえいえ! とても可愛いと思います。早速、この後久保主任と打合せいたします」
恍けた言動の柏田課長に、美雪がにこやかに返答する。
「そうかそうか。じゃ、よろしく頼むよ」
そう言って柏田課長は師岡本部長に軽く会釈すると、二人は余裕の表情で商談ルームから出ていった。
部屋に残ったのは、雄介、美雪、そして宣伝部の数人。
師岡本部長と柏田課長が離れていったことを確認し、雄介が美雪に食ってかかる。
「どういうことですか!? 夏野さん! こんなヘンテコなマネキン、使えるわけないでしょう!?」
「……すみません久保主任。こればっかりは……、どうしようもないんですよ」
雄介に頭を下げつつ、諦観した表情となる美雪。
「久保主任。夏野さんも最初は断ってたんですが、何しろ師岡本部長のお嬢様ということで、誰も文句が言えなかったんですよ」
「課長も本心ではハラワタ煮えくり返っていると思いますよ? センスの良さは抜群ですから」
「ま、長いものに巻かれる姿勢も抜群ですけど」
口々に愚痴る宣伝部の面々。と、美雪が改めて陽介に懇願する。
「そういうわけなんです。久保主任、無理を承知で、何とか使ってみてください。お願いします」
「いや、お願いしますっつっても、この顔に何着せるんですか? 洋服でも合わないんじゃないですか?」
「確かに……」
返す言葉がない宣伝部の面々。
「……と言っても、やるしかないワケですよねぇ。分かりました。……しっかし、ホント何着せりゃいいんだろ」
「ありがとうございます、久保主任。あなたなら分かってくれると思ってました」
美雪が素直に雄介に感謝の微笑みを送る。その美しさに、思わずドキッとする雄介。
「……ん、ああいやあ! ま、俺はいいですよ。でも、他の社員や販売員さんたちのモチベーションが下がらないかが、一番心配なんだよなあ……」
*****
そして運命の週末、件のマネキンが浴衣売場のバックヤードに搬入されてきた。
「うわあ……」
「……マ・ジ・か」
現物を目の当たりにし、マネキン着付けを担当する者たちが呆然とする。こいつは写真で見るより遥かに難敵だ。
「どうした!? お前らの腕の見せ所じゃんよ! ……つっても無理だよな、ウン」
皆を励まそうにも励まし切れない雄介。
しかし、もうサイは振られたのだ。この恐るべきマネキンに売場構成のテイストを崩さないコーディネイトをして、明日からしばらく店頭でお客さんの目に触れさせなければならない。
溜め息をつきながらマネキンに浴衣を着せていく女性社員や販売員を見ながら、雄介はお客さんの失望する顔や、ライバル店のバイヤーが呆れる顔などが次々と浮かび、思わず天を仰ぐのであった……。
**********
浴衣売場にトンチンカンなマネキンが仲間入りして1ヶ月。売上数値は目に見えて落ちていった。理由は明らかだが、それについては何を言ってもはじまらない。
何とか持ち直す方法を雄介が考えあぐねていたところへ、またしても会社側からテコ入れと称した横槍が入った。
それは今年の売場のコンセプトをまるで無視したかのような、先祖返り的ファッションショーの実施。
似たり寄ったりな柄の浴衣に、似たり寄ったりのコーディネイト、それを『今年の浴衣売場が自信を持ってオススメします!』などと謳われてやられた日には、これまで見てくれていたお客さんは果たしてどう感じるのか?
そうした思想は、どうやら会社の上層部にはないらしい。そのことを雄介は、一週間後さらに思い知る。
突如売場に配布されたDVD。そこには、時代遅れとしか思えない昔ながらの『お祭り風景』が収録されていた。
無論、お祭りが好きな人は世の中にはたくさんいるし、そのために浴衣を買うという風習もまだまだある。
しかし、今や夏のトレンドファッションとしての『流行商品』へと進化した浴衣を、今更30年前に戻してどうするんだという気持ちが、雄介をはじめ売場の誰もが感じていた。
そして、止めとばかりにやってきた運命の日。
休日明けで出社した雄介は、バックヤードに3セットの浴衣一式が無造作に置かれているのを見て首を傾げた。
「これは確か……総合入口のエレベーター前ディスプレイ・スペースに陳列していたヤツじゃないか。何でこんなとこに?」
と、そこへ部下の女性社員が出勤してきた。
そして、雄介の顔を見るなり泣き顔で走り寄ってきた。
「久保しゅに~~~~ん!!」
「おい、どうしたんだ!」
「どうしたもこうしたもないです! 昨日、師岡本部長が『いつまで浴衣なんか飾ってるんだ!』とか言って、共用ディスプレイの陳列がみんな強制撤去させられちゃったんです~~~!!」
「何だって!?」
ひとまず確認の必要がある。
雄介は総合入口エレベーター前のディスプレイ・スペースへと走った。
と、そこには『SALE』と胸に書かれた赤いTシャツが3枚、何の装飾もなくトルソーに着せられていた。
「……ざけんなっ! まだこれからデッカい花火大会が2つもあんだぞ? 今が売り時じゃねーか! こんなひでーことあっかよ!!」
激しく憤った雄介は、そのまま宣伝部の事務所へと雪崩れ込んだ。
<つづく>
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます