大学や、高校の数が多すぎる/ 教育は受けるものではない。求めるものだ

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加瀬英明

史上最初の29連勝 14歳の快挙     Date : 2017/08/04

中学3年生の藤井聡太4段が、将棋公式戦で史上最初の29連勝を果したことが、日本全国を涌かせた。藤井君の快挙に喝采したい。

 ふと、私は藤井君を少年扱いにするのは、日本社会が幼児化しているからではないのだろうかと、訝った。

 藤井4段は満14歳になる。将棋だけではなく、いろいろな分野で、第2、第3、第4の藤井君が現われてほしい。

 今年は明治元年から数えて、150年目に当たる。徳川時代が終わるまで、地方によって異なったが、武家、庶民ともに、男子は12歳から16歳(満11歳から15歳)で、前髪を剃り落して元服し、成人の仲間入りをした。

 日本の社会の幼児化が進んでいる

 この30年ほどだろうか、日本の社会が幼児化しているために、活力を衰えさせているのではないか、不安に駆られる。

 政府が高等教育の無償化を実現しようとしているが、今日の日本には大学の数が多すぎる。3分の1か、4分の1でよいのではないか。

 高校の数も、多すぎる。大学や、高校の数が多すぎるために、国民の教育水準を低いものにしている。

 何よりも日本の活力を奪っている元凶は、受験戦争だ。

 学校や企業の場におけるいじめが、大きな社会問題となっているが、受験戦争は国家が主宰している壮大ないじめだ。

 少年の心を歪めてはならない

 私は敗戦の年に、国民学校(昭和16年4月から小学校がそう呼ばれた)3年生だった。長野県に疎開したが、戦争最後の1年間は授業がほとんどなかった。鎌を片手に軍馬の秣(まぐさ)刈りに動員されたが、戦争に勝つためだと信じて、小さな胸を誇りでいっぱいにして、励んだ。

 占領下の小学校では、上級生が使った教科書で学んだが、ところどころ墨が塗られて消されていたうえ、満足な授業が行われなかった。封建的だというので、習字もなかった。

 大学に進むまで、いまわしい受験戦争もなかった。私は鎌倉で育ったが、仲間の子供たちとのびのびと時間がたつのも忘れて、自然のなかで遊んだ。二宮尊徳の歌に「音もなく香もなく、常に天地(あまつち)は書かざる経をくりかえしつつ」という句があるが、人との絆(きずな)や、生きる悦びを身につけた。

 人が育つためには、少年期に過度に束縛されず、友達たちと好きな時間を送ることが、必要だと思う。少年時代はいってみれば、人生の幅広い土台をつくる正3角形の底辺のようなものだろう。底辺が大きいほど、3角形が大きくなる。

 和泉式部と樋口なつの教養の深さ

 学校教育を、盲信してはならない。大隈重信は佐賀藩の藩士の子として藩校に通ったが、晩年に遺した自伝のなかで「頑固窮屈な朱子学のみ奉じて、一藩の子弟をことごとく鋳型のなかに封じ込めようとした」と、非難している。重信は満14歳で騒動を起こして、退校処分となった。

 武家の男子は全員が藩校で学んだが、庶民の子は男女とも寺子屋に通った。寺子屋は江戸期に全国で2万以上を数えたが、4年制が多く、どれもが地域住民による手造りだった。

 私は和泉式部をはじめとして、多くの歴史上の女性に恋している。その1人に、5000円札に肖像を飾っている、樋口一葉がいる。本名を樋口奈津、あるいはなつといった。

 なつの父親は今日の山梨県にあった、甲斐の国の貧農の息子だった。村の庄屋の娘と道ならぬ恋をして、2人は幕末の江戸に駆け落ちした。

 父親は暦が明治に変わると、東京府の最下級の役人として就職して、なつは明治5年に鍛冶橋にあった、長屋の官舎で生まれた。なつの最終学歴といえば、尋常学校4年である。当時の小学校は、4年制だった。

 父親はなつが幼いころから、万葉集や、『源氏物語』などの古文学を教えた。今日の日本では想像できないだろうが、貧農の子だった父親に、それだけの教養があったのだった。

 なつが17歳の時に、父親が死んだ。なつは母と妹の生活を支えるために、洗い張りや針仕事をしながら、小説を執筆した。25歳で極貧のなかで病死したが、明治最大の女性の文豪となった。

 教育は受けるものではない。求めるものだ

 伊能忠敬をとろう。私の父方の祖母は千葉県八日市場の醤油造り農家の娘だったが、忠敬の曾孫(ひまご)に当たった。そこで、私も忠敬の血を引いている。祖母は15歳で銚子の隣にある、旭の祖父に嫁いだ。祖父は17歳だった。当然のことに、祖父も祖母もその年齢で責任感に溢れていた。

 忠敬は幼名を三治郎といい、九十九里浜の農家に生まれた。幼時に漁具をしまった納屋の番をしながら、親から、また寺子屋で読み書きや、算盤を習った。寺子屋では師匠が子供たちを、厳しく躾けた。17歳で佐原の庄屋だった伊能家に婿入りして、忠敬と名乗った。

 50歳で隠居したが、それまで独学で天文学や暦学や、和算を学んでいた。隠居すると江戸に出て、幕府の天文方だった高橋至時に弟子入りして、天体観測や、測量を修めた。

 忠敬は55歳で、深川の富岡八幡宮から全国測量の第一歩を踏み出した。忠敬が作製した日本地図は、今日、海岸線が埋め立てなどによって、大きく変わってしまっているが、驚くほど正確なものだ。

 江戸期の日本は庶民のなかから、無数の優れた学者を生んでいる。これは世界でも珍しい。二宮尊徳は後に士分に取り立てられたが、農家の出である。

 どうして150年前に、アジアのなかで日本だけが明治維新を成し遂げて、近代化することに成功して、たちまちうちに世界を支配していた白人国家のなかで、対等の地位を獲得することができたのだろうか。

 明治維新を招き寄せた志士や、明治の日本の発展を支えた先人たちは、まず自分をつくり、新しい日本をつくった。

 ところが、今日の日本の青少年は、受験戦争といういじめを加えられて、健やかな人格を形成する少年期を奪われている。子供たちは幼稚園や小学校のころから、“合わせる人生”を送ることを強制されて、自立心を培うことができない。

 “つくる人生”と“合わせる人生”

 幕末の志士や明治の先人たちは、1人ひとりが“つくる人生”に挑んだ。もし、今日の日本の若者のように、ひたすら“合わせる”ことに努めていたとしたら、近代日本はなかった。

 もし、高等教育を無償化したら、日本からすでに死語に近くなっているが、苦学という言葉がなくなってしまおう。国民の多くが、人生が楽の連続でなければならないと、信じるようになっているが、日本を偽りの楽園にしてはなるまい。

 15年ほど前までは、今、マスコミを賑わせている「就活」という言葉は、存在しなかった。青年の大多数が自分を官庁や、できるだけ安定した企業に合わせて、身を委ねたい。

 「終活」といって、人生の終わりを準備する言葉まで、流行っている。本来、活動という言葉は、いきいきと行動することを意味しているが、就活や、終活というと、生気が感じられない。

 なぜ、中国と李氏朝鮮は無為無力で亡びたか

 19世紀に西洋の帝国主義勢力が、津波のようにアジアに押し寄せた時に、中国も、李氏朝鮮も、日本と異なって、新しい挑戦に対応することができず、立ちすくむだけだったために、亡国を強いられた。

 その大きな原因が、科挙制度にあった。科挙が、両国から活力を奪った。隋代から行われたが、2000年前の四書五経の暗記力を試すものだった。

 受験戦争は科挙によく似ている。日本を滅ぼすことになるのではないか。

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