女帝、推古天皇が補佐役に抜擢
こうした意味でのウェストファリア体制を、日本人は聖徳太子の時代から享受していたと言えば、驚かれるだろうか。
その事績を追えば追うほど、偉大な人物であると確信できる。
聖徳太子は、キリスト教暦574年生まれ。第30代敏達天皇3年のことである。当時は元号が存在しなかったので、天皇の在位年数で数える。ちなみに、イスラム教の開祖・ムハンマドとまったくの同時代人である。
父は橘豊日皇子(たちばなのとよひのみこと)、後の第31代用明天皇である。母は穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)。母方の祖父である第29代欽明天皇の時に仏教が伝来している。
太子は、馬小屋で生まれたから厩戸皇子(うまやどのみこ)と名付けられたとの伝承がある。他にも「生まれてすぐに仏教の聖地であるインドの方角である西に向かって手を合わせて拝んだ」だの、「十(七)人の話を同時に聞けた」だの、人間離れした伝説に事欠かず、後世の人物描写でも現実にはありえないほどの聖人君子として描かれるのが常だが、割愛する。ちなみに最近では「聖徳太子不在説」が学界の少数有力説となったが、その論者ですら厩戸皇子の存在は否定しない。単なる詭弁と片づけて良い。
太子が11歳の時、父が即位したが、2年後には崩御した。直後に、有力豪族である蘇我氏と物部氏の抗争が激化した。蘇我氏は、外来宗教である仏教の受容を推進していた。太子の一族は蘇我氏と血縁が深く、太子の妻も蘇我の娘である。一方、物部氏は日本古来の神道を守る立場から、蘇我氏を激しく攻撃していた。両者は武力戦に至り、蘇我氏が決定的に勝利した。少年の太子も参戦したのは確かなようだ。
後継天皇には、崇峻(すしゅん)天皇が即位した。蘇我馬子の完全な傀儡である。自立を志向したので、馬子の刺客によって暗殺された。592年のことである。
馬子は、後継に推古天皇を擁立する。神功皇后の伝説以来の、女帝である。神功皇后は、現在は歴代天皇の代数からは外されているので、推古天皇が史上初の女帝とされる。
翌593年、推古天皇は聡明で知られる太子を摂政にした。蘇我馬子の専横を抑えるために、補佐役に抜擢したのである。もっとも、女帝と馬子は晩年には恋愛関係となり、太子は人間関係に苦しんだとも推察されるが、それは別の話。
太子の下で神・仏・儒の3宗教が調和
行政官として太子が取り組んだ課題は、2つ。
1つは内政で、文化興隆に力を注いだ。軸は仏教推進である。太子は、四天王寺、斑鳩宮、法隆寺など、多くの寺院を建築したことで知られる。仏法僧を保護した。
同時に神道の尊重も重視している。だから蘇我・物部の争いは、負けた者は皆殺しにする宗教戦争にはならなかった。
また、太子自身は学者でもあり、仏教だけでなく、儒学の高度な知識を得ていたこともわかっている。当然、儒学の輸入と、儒者の保護にも努めた。
太子の下で、神・仏・儒の三者は調和するのである。
ちなみに、今でも仏教諸派は教義に細かい違いがあり、あらゆる宗派が唱えられるお経が無いらしい。日蓮宗以外の宗派は、「南無阿弥陀仏」は言えるらしいが。だが、全仏教諸派に神道と儒学のすべての諸派も加え、「聖徳太子は偉い!」だけは言えるのである。当然、太子の事績である。
日本は宗教戦争を7世紀に終わらせたと言えば、外国人は驚く。悲惨な宗教戦争を経験していないのだから、ノンキな民族であるのも頷けよう。
常に不穏だった朝鮮半島
外政では、朝鮮問題に忙殺された。
大和朝廷が成立して以来、東国よりも半島情勢の方が常に不穏であった。当時の朝鮮半島は三国に分かれて抗争していた。北には、満洲の地から南下してきた高句麗が、今の北朝鮮の部分に勢力を張る。今の韓国の西部には百済、日本の属国である。東部には新羅、叛服(はんぷく)常無き国だった。常に周辺諸国の勢力関係を見極め、大陸国家の支援が得られると百済や日本に居丈高になり、日本が強く出ると頭を下げて許しを乞う。
さらに、三国時代以来、ようやく統一王朝が成立したと思われた中華帝国の隋も、安定していなかった。皇帝の煬帝は何度も遠征を行ったが、高句麗に敗北する体たらくだった。
そうした中、太子は600年に新羅に征討軍を送っている。朝鮮出兵である。新羅はすぐに降参した。
なお、この年に遣隋使が送られたと主張する歴史家がいるが、根拠は『隋書』である。『日本書紀』には記録が無い。なぜ自国の正史よりも外国の正史を優先するのかわからないが、仮にこの時に遣隋使が送られていたとしても、何の歴史的意味もない単なる外交使節である。
余談だが、日本人歴史学者には、おかしな習性がある。『日本書紀』にしか載っていない事実は認めないとしながら、中華帝国の正史の記述は無批判に信じるのである。中華コンプレックスである。『日本書紀』の実証性を批判する論者が、「魏志倭人伝」如きを必死に読み込むさまは滑稽である。
そもそも「魏志倭人伝」とは何か。中国の三国時代を記録した正史である『三国志』の中の『魏志』の中の「東夷伝」の中で、日本について書かれているであろう部分である。こんなもの、近代史家の感覚で言えば、史料価値ゼロである。
たとえ話で、考えてみよう。2000年後の世界に、日本に関する記録が残っていなかったとする。唯一例外が、『プラウダ』の日本に関する「まとめ記事」だったとする。そんなものに、何の価値があるのか。『プラウダ』で悪ければ、『人民日報』で良い。『プラウダ』や『人民日報』は、まだいい。外形的事実は間違っていないし、固有名詞を正しく記述するくらいはできるので、そこは信用できる。しかし、「魏志倭人伝」の通りに向かえば、邪馬台国は海中に没してしまう。中華帝国正史の信憑性など、『明史』に至っても同列なのだから、まともな歴史学者は参考意見程度にしか信用しないものだ。
それに引き換え、我が国の『日本書紀』は、およそ一国の正史とは思えないほど、プロパガンダをする気が無い。平気で「一書に曰く」などと異説を載せる。どちらが信用できるか、一目瞭然ではないか。
十七条憲法こそ世界史最古の憲法典
さて、『書紀』は太子の事績を詳しく載せる。日本人なら小学生でも知っている代表的なのが3つ。603年の冠位十二階、604年の十七条憲法、607年の遣隋使である。
冠位十二階の制は、その後に何度も修正され、最終的には701年の大宝律令で完成する。天皇を頂点とする国家秩序の構築である。
十七条憲法は、第一条で「和」の貴さを説く。和とは、日本のことである。日本の国家体制、国柄を宣言した。
現在、日本政府は「十七条憲法は憲法ではない」との立場を採っており、憲法学者の圧倒的多数説でもある。しかし、イギリスではマグナカルタ(大憲章、1215年制定)が今でも憲法の一部として扱われているのを御存知か。イギリス人もマグナカルタがいかなる意味でも近代憲法でないことは承知している。しかし、自国の歴史を象徴する文書だとして、世界最古の憲法典として尊重しているのである。この意味では、十七条憲法こそ世界史最古の憲法典である。
607年、聖徳太子は遣隋使を送った。その書き出しは、「日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す、恙なきや。」である。一切の対等の関係を認めない中華皇帝に「同じ天子だ」と宣言したのだ。これに対し、隋の煬帝は反撃できなかった。それまで、日本は実質的な独立国であったが、中華皇帝との交流においては上下関係を強要されていた。それを太子は戦うことなく、否定した。見事なまでの外交的勝利である。
晩年の太子は、「三経義疏」など仏典の解説に精力を傾けた。一方で、『国記』『天皇記』の編纂に従事した。不幸にして太子の死後に焼失したが、天武天皇の発案で国史編纂事業は再開され、『古事記』『日本書紀』として結実する。
太子は622年に死去、多くの人が嘆き悲しんだと伝わる。その後、一族が蘇我氏に滅ぼされながらも、多くの人が太子の事績を忘れなかったのは当然だろう。
今の我々がノンキな国でいられるのも、聖徳太子のおかげなのだから。
ノンキな国とは、文明国のことである。欧米では、文明国の法をウェストファリア体制と呼ぶ。聖徳太子は、白人よりも1000年以上も前に文明をもたらした人物なのであり、日本人は恩恵を享受してきたのだ。
日本とは何か。聖徳太子の国なのである。