テレビCM広告モデル自体が、破綻に向かっている

陳胡痒
テレビCMの約6割が視聴者の印象にほとんど残っていないーそんな調査結果が出て衝撃が広がっている。印象に残らないCMの中には、3億円以上を費やした企業や、年間に905回も流したものもあった、というのだから驚く。テレビでCMを流して知ってもらうという広告モデル自体が、破綻に向かっている、という見方も出ている。(j-cast.com)

桜の頃に我の広告屋時代の同期と会ったときに、この話出たよ。
彼は営業に配転になるまでずーっと主に電波媒体の広告の制作にかかわってきたわけだけれど、ちよっと話を戻す。
我と彼の上司は某トイレタリーメーカーの誰でも知っているCMを制作したこともある人物だった。
その人が入社研修のときに言った言葉というのが(ちょうどベルリンの壁が壊れた直後だったのだが)「ペンキの色のついた無価値なコンクリートの破片ですら、ベルリンの壁の破片だといったらお金をとることができる。宣伝屋の仕事というのは、そのままでは無価値なコンクリートの破片に物語をつけて、それにみんなが共感して価値以上のお金を払うようにさせること」
そしてその後の仕事を通じてしょっちゅう怒られたのが、「こんなコピーで生活者がコンクリートの破片にカネ払うか?このバカヤロウ、死ね!」と、こんな感じだった。
そしてその根底にあるのが、人々がこの商品を買うと本当の自分になれますよ・・・という洗脳なわけ。
要するに、この商品を買うとあなたの欠けた部分を補うことができる、と。
そして宣伝マンの仕事というのは、その欠けた部分を補うストーリーなるものを作り上げて、それを消費者に受け入れさせるテクニックを提供することなんだな。(だっったと過去形で書くほうがより適切かな)
今になって我が思うに、マス広告に効果がなくなったというのは、ネット広告が増えたことや、不況のせいで消費が実用的になっただけではないと思うんだよ。
つまり、そうした外部から提供されるストーリーで自分の欠けた部分を生めることはできないということに、日本人が気がついてしまった からではないのか?
新世紀エヴァンゲリオンの人類補完計画というのがあるが、不完全な自分の自我の欠けた部分を、同じく不完全な他人の自我で補完出来るかというと、そんなものは不可能なんだよ。これは他人の自我が提供するストーリーについてもいえる。
それに本能的に気がついているから、消費者はCMに「共感しなくなって」しまったんだよ。
クリエイターの大部分はそれに気がついていない。
まだ我々エリートがバカ消費者どもの欠けた部分のストーリーを創って提供してやるという考えを、どこかに持っている。

要するに
そんなのも買っても私は 変わらない!
と みんなが わかってきたのだ

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