聖徳太子の没後1400年

陳胡痒さんの 得意分野
今年が聖徳太子の没後1400年になることにちなんだプロジェクトが、ゆかりのある八尾市でスタートした。市が「八尾は聖徳太子と物部守屋(もののべのもりや)」と題して展開。市公式チャンネルで動画を無料公開し、市内にある太子ゆかりの歴史資産を紹介している。6世紀後半の飛鳥時代、仏教を国内に受け入れようとしていた「崇仏派」の聖徳太子や蘇我馬子と、それに反対する「廃仏派」の物部守屋が対立。守屋の本拠地があった八尾で戦いとなり、太子は守屋の大軍に包囲されたものの、椋の大樹の空洞に隠れて九死に一生を得たとされる。逃れた太子はその後の戦いで勝利。椋の大樹があった場所には大聖勝軍寺(だいしょうしょうぐんじ)が建立された。その地に名付けられた「太子堂」の地名は、今も残っている。
 
ここ、松井知事の地元です。
このとき聖徳太子を殺せていたら、母のご先祖は民にされなかったかもしれないね。
鳥の羽根や動物の革を加工したりすることが卑しい仕事にされたのは仏教の影響で、物部氏の領地だった八尾には矢矧、弓削などの地名があって、朝廷の国防長官・宗教長官だった物部氏の氏族が弓矢を作っていた。言ってみれば飛鳥時代の日本の一大兵器産業の集積地だったわけ。そのため今でも地区も多く昔は解放同盟王国だった。
八尾の出身の弓削道鏡は物部氏の末裔の弓削氏の出身だ。
ちなみに、物部守屋を殺したのは秦河勝でfoxの直系のご先祖だ。
八尾の守谷の墓には日本を代表する神社が寄進した玉垣があるけど、秦氏の氏神の伏見稲荷の名前もあって笑える。なんとも日本的だよね。殺しておいて神にして鎮魂するのだから。
ここらへんの感覚が靖国神社を攻撃している特亜には理解できないんだね。
殺された方の物部氏の氏神は奈良県天理市の石上神宮だ。
ちなみに、母の実家のあるあたりの伝承では物部氏の先祖は神武天皇が奈良にくるまでここらへんを治めていた王家(要するに邪馬台国畿内説が正しいなら卑弥呼)ということになる。
道鏡が朝廷を乗っ取ろうとしたのは、そういう因縁と正当な理由があったわけだ。
 
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