攘夷派の「朝鮮討つべし」が征韓論になり、朝鮮ではなく韓国だという主張に変化した。
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引用:https://i.ytimg.com/vi/7WIwhKm5rLY/maxresdefault.jpg


朝鮮という独立国は存在しなかった

韓国および北朝鮮は1897年まで朝鮮という国名で、北朝鮮と混同するので日本では李氏朝鮮と呼んでいます。

李氏は朝鮮国王の一族だが、音は高麗王の家臣だった武将がクーデターを起こして国を乗っ取った。

クーデター翌年の1393年に中国王朝の明から朝鮮という国名を授かり、朝鮮王に任命され、正式に認められた。

これは韓国や朝鮮のその後を左右する重大事件だが、実は正式な身分は権知高麗国事(高麗国王代理)というものだった。

本当の高麗国王は別にいるのだが、お前を代理として任命するよと言われて、任命されたのが朝鮮王です。

たとえば徳川家康が豊臣を滅ぼしたあとで明国まで出かけていき、「豊臣王代理」という位を授かってありがたく頂戴したというような話です。


李氏朝鮮は高麗の後を引き継いで冊封体制に組み込まれ、支配を受け入れる代わりに統治権を認めてもらった。

これを琉球の冊封体制と比較するとわかり易く、1404年に察度王朝が明から冊封を受けて琉球王に「任命された」。

明の皇帝に任命されて王になったので、明王の家来で、現代的な意味での独立国とは言えない。


例えば明王が琉球の別な人から朝貢を受けて冊封すると、前の琉球王は解雇されて出て行かなければならない。

日本の大名は朝廷あるいは将軍から「任命される」のだが、忠臣蔵の赤穂藩のように別な大名が任命されたらクビになるのです。

これではとても独立国とは言えず、朝鮮王も明や清の皇帝が別な王を任命したら、戦争するか出て行くかしなけらばならなかった。



韓国の韓は征韓論から取った


その証拠に1895年、日清戦争に日本が勝つと下関講和条約で清国は初めて朝鮮を独立国と認め、朝鮮は独立したのだから明の皇帝から任命された「朝鮮王」をやめようという事になった。

1500年くらい前に半島に存在した馬韓・弁韓・辰韓の三国を三韓時代というが、ここから「大韓帝国」と名づけ、朝鮮半島で初めての独立統一国家が誕生しました。

大韓帝国は最初から日本の影響下にあったが、ロシアや欧米列強に日本を倒してもらおうと画策したため、日本軍は武力行使して日韓併合に至った。


有り体にいえば大韓帝国は日露戦争を利用してロシアに日本を征服させようとしたのだが、予想に反して日本が勝った結果併合された。

もしロシアが勝っていたら、ロシアに併合されてやはり大韓帝国は消滅しただろうと考えられる。

その場合、朝鮮半島は後のソビエト連邦に組み込まれて、共産国家になっていたかも知れません。


さて「大韓帝国」という国名だが、朝鮮王が「大韓皇帝」に衣替えしたのが1897年で、1860年頃から日本では征韓論が盛んになっていた。

当時の国名は朝鮮だったのだが、これは清国皇帝の家臣としての称号だとして、尊皇攘夷派は「韓」「韓国」を用いていた。

征韓論の始まりは幕末初期の志士である吉田松陰など、長州や水戸の人たちだったと言われている。


朝鮮王が「大韓皇帝」と名乗ったのは、日本で征韓論が沸騰した後で、攘夷派が唱えた「朝鮮ではなく韓だ」という理論の影響が見られる。

1882年に日清両国が朝鮮に軍隊を駐留させていて、日清戦争後の朝鮮は既に日本の支配下にあった。

ところが日本は日露戦争で大韓皇帝がロシアに加勢する動きを見せたので、再び「朝鮮総督府」として元の朝鮮に戻してしまった。