プリゴジン粛清で佐々成政を思った

宮崎正弘の国際情勢解題」 
    令和五年(2023)8月28日(月曜日)
        通巻第7885号

 

プリゴジン粛清で佐々成政を思った
@@@@@@@@@@@@@@@@

 ワグネル傭兵部隊のボス、かつてプーチンの料理長といわれ、異例の出世をとげていたプリコジンが、2023年8月23日に搭乗したプライベートジェット機が墜落し、死亡した。粛清だろう。
ロシア当局は8月27日、DNA鑑定によりプリコジン本人と確認されたと発表した。搭乗していた十人は全員が死亡。殆どがワグネルの幹部だった。

 西側からは蛇蝎のごとく嫌われて悪魔視されるプリコジンだが、ロシア国民の一部からはアンチプーチンの姿勢を評価し、じつは人気が高いのである。

 さて戦国武将の佐々成政は不運の武将だった
25歳にして比良城主。長篠の役では鉄砲隊に所属して戦功を認められ、豪壮にして果敢、信長麾下の柴田権六の副官となり越中で上杉の抑えに重要な役目を果たした。めきめき頭角を現し、前田利家とならぶか、あるいは利家をこえる力量があった。
 運命が変わったのは本能寺の変である。
 秀吉が天下を狙いだしたので、信長の右腕といわれた柴田権六が立ち上がる。当然、佐々は柴田勝家の寄騎(与力)だから反・秀吉である。
しかし越中にあって上杉の抑えのため越中を離れられない。
 柴田の武運つたなく秀吉に賤ヶ岳で破れると、(佐久間の中入れ失敗と前田利家の日和見が原因)福井へ戻って新婚の妻・市ともども爆死した。直前に三人の娘が助命してもらう。この信長の血を引く三人娘が、そのごの歴史を変える。秀吉の愛妾となる淀、徳川二代将軍秀忠の正妻に納まるお江。京極高次の正妻となる初。ま、これらは別段書機改める必要もないので、佐々に話をもどす。

 柴田敗北を聴くや越中にあった成政は秀吉のもとにかけつけて降伏した。富山城は安堵された。
しかし煮えくりかえる秀吉への不満、やがて雪に閉ざされた富山城かから立山連峰を超えて家康に会いに行くという無謀な冒険にでた(「さらさら越え」という)。しかし浜松にいた徳川家康は長久手の戦役で勝負に勝ったものの試合に負けて(信雄が裏切った)、再び秀吉とは対立するときではない、とした。
成政は「秀吉打倒の共闘」を持ちかけるが家康は冷静に拒否した。佐々成政はまた豪雪を踏み越えた越前へ戻った。
その後、隙を見て越中で前田に刃向かうが、このことで秀吉は不信感を抱き、警戒する。
 秀吉は百姓一揆激しい熊本へ成政を配置換えした。地侍たちの執拗な抵抗で鎮圧に失敗し、佐々成政は尼崎まで釈明にきたが、切腹を命じられ、無念のまま果てた。
 まさにプリコジンと似ていないか。

  ★
 余滴。
佐々成政の末裔が佐々克行・敦行兄弟と妹が紀平悌子だった。
克行は朝日新聞記者で新宿ゴールデン街での飲みっぷりは語り草だった(或るバアで隣り合ったことがある)、なぜ朝日かと言えば父親(佐々弘雄)が朝日の記者で尾崎某と同僚、ゾルゲ事件に関与した。戦後、参議院議員にもなった。

佐々敦行は東大土曜会での同期が若泉敬だった。警察畑をあるき、東大安田講堂、浅間山荘事件では警備の指揮を執り、フレデリックフォーサイスが取材に来れば応じ、警視庁公安に出向し、内閣安全室長となった。官僚には珍しく筆の立つ論客としても活躍した。
 語り草は三島事件である。
このとき、佐々淳行の肩書きは警視庁警務部参事官兼人事第一課長。上司の土田國保・警視庁警務部長(後の警視総監。過激派の爆弾で夫人が殺害された)から「君は三島由紀夫と親しいのだろ。すぐ行って説得してこい」と言われ、現場に駆けつけた。
三島の遺体と対面しようと自衛隊東部方面総監室に入ると、「足元の絨毯がジュクッと音を立てた。みると血の海。赤絨毯だから見分けがつかなかった。あの不気味な感触を覚えている」と述懐した。

紀平梯子は若き日に三島由紀夫から貰ったラブレターなどを公開したこともあったが、市川房枝の弟子、参議院議員にもなった。
親もさりながら三兄弟(妹)ともに佐々成政の怨念を晴らすかにように反権力だった。敦行とは二回しか会ったことはないが、権力側にいながら反権力思想の持ち主だった。
       ◎◎◎

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 中国の反日感... 落語家にはな... »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。