物部氏が神武がやってくるまで日本の王家だった

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陳胡痒


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最新調査でわかった「日本書紀」の真実 (TJMOOK) (日本語) 大型本 – 2019/12/19


「日本書記」に記載されていながら場所が不明だったり、架空の出来事だと思われていたことが、近年の発掘調査によって場所が特定されたり、事実であることが判明した例が多発しています。本誌は最新調査に基づき、仏教をめぐる物部氏と蘇我氏の対立の真相、ヤマト政権と出雲・吉備・丹波の関係、「日本書紀」編纂に隠された藤原不比等の策略など、日本最古の正史「日本書記」に関する真実の数々を紹介します。

年末に買ったこの本読み終わった。
要点は現存する最古の正史(国家の編纂した公式の歴史書)であるにもかかわらず、日本書紀は天皇家ではなく藤原氏の視点で書かれたものであるということ。
それが一番現れているのが大化の改新の前後の記述で、乙巳の変の部分。俺も言われてみるまであまりにも当たり前のことなのに今まで気が付かなかった。
それはどういうことかと言うと、もし天皇家中心の国家の歴史を記すなら、蘇我氏を滅ぼしたクーデターは中大兄皇子が皇家を滅ぼそうとする売国政治家一族を打った救国の英雄として、中臣鎌足は中大兄のパシリの実行犯の一人として描かれなければならないはずである。
しかし、日本書紀ではどう描かれているかと言うと、どう読んでも陰謀のプロデューサーは中臣鎌足なのである。
中臣鎌足がまず蘇我氏を滅ぼそうと決心してその神輿に担ぐために皇族の軽皇子(後の孝徳天皇)に接近するんだけど、こいつ無能者でだめだなと考えて、別の人物を探すのである。それで彼が神輿としてみつけた皇族が中大兄皇子で、あまりに強大な蘇我氏全体を打つことはできなかったため、蘇我氏の非主流派であった蘇我倉山田石川麻呂をクーデターグループに引き込んで、彼の娘と中大兄皇子を結婚させたりもしている。
この部分を見れば、中臣こと後の藤原氏が蘇我氏亡き後の自分たちの立ち場を正当化し、蘇我氏と蘇我氏に滅ぼされた物部氏に代わって皇家を支える重要一族であるということを明確にしたいがために日本書紀を編纂したのは間違いなく、少なくとも乙巳の変以後の部分は天皇家は主人公ですらないということになる。
ところで、この本、面白いのは、物部氏を明確に神武東征以前に奈良に首都を置いて西日本の弥生人王朝を支配していた王家であるといい切ってしまった記事があることだ。
これは俺の母の出身地の物部氏の末裔が住む集落の古老の口伝で伝えられてきたことと一致する。しばしば書いていることだけど、邪馬台国は物部王朝だったということだ。ヒミコもトヨも物部氏の一族だったわけである。
それを朝鮮半島から馬を連れて渡ってきて宮崎県で力を蓄え、筑紫の国経由で瀬戸内海・山陽道を攻め上ってきて奈良盆地にあった弥生人物部王朝=邪馬台国を攻撃したのが歴史的人物としての後の神武天皇であり、神武天皇は邪馬台国と戦争するが、最後は物部氏出身のトヨ女王と結婚して邪馬台国の王権を乗っ取ったということである。
だから伊勢神宮には外宮先拝というしきたりがあって、外宮の祭神はシャーマンであるトヨ女王が神託を受けていた弥生人の神=豊受大神であり、内宮の祭神は、天孫が降臨、つまり朝鮮半島から稲持って日本に渡ってきた際に日本に行けという神託を下した天孫族の信仰していた神=天照大神である。
そして神武はトヨと結婚して彼の子孫は日本の弥生人の王権と共に九州の天孫族の王権をも受け継ぐことになったわけだ。
そして弥生人と神武率いる天孫族が王家以外でも混血して誕生したのが古墳人である。
これも俺はこの本に指摘されるまでまったく気が付かなかったのだけど、前方後円墳は物部文化である。というのは、最古の前方後円墳といわれる箸墓古墳は卑弥呼の墓と言われているけど、これなんかまさに邪馬台国の首都であるのがほぼ確定的な天理市の纒向遺跡のすぐ南隣にあるからだ。そして前方後円墳は6世紀ごろまで作られるのだけど、それ以降は畿内では円墳が主流になっていく。ちょうど宗教祭祀を司っていた物部宗家が滅びるのと時期を同じくして前方後円墳は大和朝廷の中心地から姿を消したのである。以上から、あの形は物部氏の何らかの宗教的なシンボルであった可能性が高いわけである。というのは物部氏と対立した蘇我馬子の墓とされる箸墓古墳は前方後円墳ではなく2階建ての方墳もしくは上円下方墳だから。
話を戻すと、旧邪馬台国王家の物部氏は神武婿入り後は神道祭儀と国防を司るヤマト王権No2の部族として蘇我氏と蘇我氏と組んで自分たちを切り捨てた皇家に滅ぼされるまで皇家を支えていくことになる。
大嘗祭には悠紀国・主基国の2つの国から献上される米を新天皇が神人同食する大嘗宮の悠紀殿・主基殿の2つがあったりするが、これは神武の故郷と弥生人の故郷の2つを意味しているのかも知れない。
こう考えてみると天皇家が頑なに皇位の男系継承にこだわってきた理由も見えてくる。初代天皇が女系王朝に入婿する形で王権を乗っ取ったからだ。
また物部氏の一門である弓削道鏡が皇位を簒奪しようとして、それを当時の朝廷関係者がバカバカしい話として一笑に付さなかった理由も見えてくるではないか。道鏡のデカちんぽにめろめろになってしまった孝謙上皇がもし道鏡を配偶者にしてしまっていたなら、それは神武が物部氏のトヨ女王と結婚して邪馬台国を乗っ取った逆で、物部氏による逆天皇家乗っ取りであるが、770年頃にはまだ物部氏と皇家についての伝承は完全に日本の上流階級の中から記憶が失われていなかったのである。(物部宋家が蘇我氏と聖徳太子と秦氏らに滅ぼされたのは587年だからまだ183年しかたっていない。日本書紀が完成したのが720年。まだ藤原以外の地方の有力豪族の私的な記録は完全に焚書して撲滅できていない時期だ)
俺はこう思うんだけど、天皇家がやる気ないのなら、うちの母ちゃんのご先祖の血筋に王権返してくれよ。こちとら後に動物の皮や羽根やにかわで武器作っていた氏族というだけでにされてひどい目にあってんだよ。
それにしても歴史書で物部氏が神武がやってくるまで日本の王家だったと書いてしまったものは初めて読んだ。

 

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