角栄でも吉田茂でもない、「戦後最高の宰相」は誰か

挫折しながらも 現場で学んだのだ

 

角栄でも吉田茂でもない、「戦後最高の宰相」は誰か 日本の未来を見据えていた12人(4) | JBpress(Japan Business Press)

(倉山 満:憲政史研究者)

米国を訪問し、ポトマック川をクルーズするヨット上でジョン・ケネディ大統領と並んで立つ日本の池田勇人首相(1961年6月21日、写真:AP/アフロ)

 戦後最高の宰相といえば、長らく吉田茂だった。今は、なぜか田中角栄である。

 池田勇人と言えば、「吉田と角栄のはざまの人」くらいの印象しかないのではないか。下手をすれば「真面目な改憲論議を封印した戦後民主主義の完成者」「日本人をエコノミックアニマルにした元凶」とすら評されかねない。

 極めて不当な評価である。

 私に言わせれば、吉田は「池田の前座」であり、角栄を褒めるに至っては日本人の知的劣化ここに極まれりである。戦後最高の総理は間違いなく池田勇人であり、現代日本に生きる我々にとって、最も知らなければならない人物こそ池田勇人である。

 では、なぜそこまで評するのか。理由を池田の生涯を振り返りながら述べよう。

公職追放の嵐の中、大蔵次官に

 池田は明治32(1899)年生まれ。19世紀生まれの最後の総理大臣となる。生家は広島の造り酒屋で、裕福な家に生まれた。

 池田の人生は挫折の連続である。陸軍幼年学校、第一高等学校、東京帝国大学とすべての受験に失敗している。今で言うなら、中学・高校・大学のすべての受験に失敗したことになる。京都帝国大学法学部から大蔵省に就職したので知らない人からはエリートコースを歩んだと思われるが、これがさらなる挫折人生の始まりだった。大蔵省は戦前から東大法学部卒しか集まらない。京大卒の池田は、出世争いのライバルとすら目されなかった。20年、地方の税務署をドサ廻りする役人人生となる。ただここで、現場の“ノンキャリ”の中に入っていき、仕事を覚えた。4年に及ぶ病気もあり出世はさらに遅れたが、塞翁が馬。こうした苦労が報われることとなる。皮肉にも戦争だった。

 昭和16(1941)年、池田は本省主税局の国税課長として呼び戻される。戦時体制で戦費捻出が至上命題となり、税の専門家である池田の知識と経験が必要とされたのだ。昭和20年には京大卒として史上初の主税局長になり新聞に大々的に取り上げられる。必死に目の前の仕事をこなしていた池田も、敗戦直前には国家と己の運命を自覚し始める。部下で生涯の腹心となる前尾繁三郎と「アメリカ軍が上陸したら武器を持って戦うか・・・」と話し合っていた。

 敗戦で日本の運命はアメリカに握られた。占領政策は過酷を極め、公職追放の嵐が吹き荒れる。戦時下の指導層はことごとく公職から追放された。大蔵省も例外ではなかった。ただ、池田にとっては幸いした。池田は官僚の最高峰である次官に登った。もちろん、京大史上初の大蔵次官である。平時ならありえない人事だった。

 仕える大臣は石橋湛山。石橋は戦前戦中と気骨のジャーナリスト・エコノミストとして知られ、軍人や官僚の弾圧にも屈せず、正論を吐き続けた。池田はこの人物に自由主義経済の神髄を学ぶこととなる。その石橋は占領軍にも屈せず、経済理論を武器に徹底的にアメリカ人たちを論破し続けた。これに業を煮やしたGHQは石橋を公職追放してしまう。

 首相の吉田茂も安定政権を築けず短命で退陣、片山哲、芦田均の不安定な連立内閣が続く。

 日本解体を狙う占領軍の魔手は大蔵省も例外ではなく、池田は組織防衛に徹さざるを得なくなる。そもそも、日本経済の破壊も辞さないGHQ相手に、池田は苦労を強いられるが、なんとか生き延びた。言うなれば、「社長に上り詰めたと思ったら、会社そのものがブラックオーナーに買収されていた」といったところか。

占領軍の無理難題と戦い日本経済を支える

 池田の退官直前、吉田茂が政権に返り咲く。吉田は池田に白羽の矢を立てた。そして衆議院選挙に出馬、1位当選する。ちなみに、池田は死ぬまで連続7回、トップ当選を続ける。

 池田は、当選1回で大蔵大臣に抜擢された。首相の吉田は自己の政治課題を日本の独立回復に定めて外相を兼任した。内政にはほとんど関心を抱かず、与党自由党統制の為に代議士たちに大臣の椅子を投げ与え「大臣病患者」を大量生産したが、3年半の間、自己の外相兼任と池田蔵相だけは動かさなかった。敗戦で焼け野原になった日本で、池田は衣食住の確保に奔走することとなる。

 

 大蔵次官から、衆議院議員選挙を経て、大蔵大臣に直行である。しかし、「ブラックオーナー」たる占領軍の存在は変わらない。池田は日本人に衣食住を与えるべく政府が借金してでも財政出動をしようとするが、占領軍は「均衡財政」を命令する。無理難題に耐えながら、既に崩壊している日本経済を支えた。池田は耐えながらも「1ドル360円」だけは勝ち取った。本来は「1ドル300円」が適切な相場だったが、「円は360度だ」などと訳の分からないことを言いながら、「貧乏国の日本に60円くらい、構わないだろう」とアメリカに認めさせた。ちょうどブラック上司の無理難題に耐えながら部下が「1つくらいいいだろう」と言わせるのに似ている。

 吉田は昭和26年のサンフランシスコ講和条約で、独立を回復した。この会議をはじめ、池田は多くの重要な外交場面にも立ち会っている。吉田は明らかに池田を自分の後継者に育てようとしていた。俗説では「吉田学校の双璧は池田勇人と佐藤栄作」と言われるが、後世の創作だ。吉田はほとんどの場合、池田を格上に扱っていた。

 吉田が退陣に追い込まれた後の鳩山一郎内閣では、野党、しかも反主流派に追いやられた。盛り返した石橋湛山内閣では主流派だったが首相自身が2カ月で病気退陣、岸信介内閣では再び反主流派。苦難の時期を迎える。反主流の期間は5年。必死に力を蓄えた。

政治家とブレーンの理想的な関係を体現

 その岸内閣が派閥抗争で揺れ退陣に至った昭和35年、有名な安保闘争で世上が騒然とする中、池田は政権担当の意思を示す。側近たちは全員が「何も、こんな時期に名乗りを上げなくても」と止めたが、池田は聞かなかった。

「朝、仙人が来て言うんだ」

 愚かな歴史学者は、この仙人が誰かを当てようとする。たとえば、右翼の大物の児玉誉士夫のことではないか、など。

 池田は若い頃から生きた学問が好きだった、地方の税務署をドサ廻りしながら、現場のノンキャリと飯を食い、酒を飲みながら、税の勉強をした時から。政治家になっても、官僚だろうと学者だろうと、本気で言いたいことがあるものは屋敷に呼んで、「酒のフルコース」を朝まで付き合わせながら対等に議論をする。

 その中で、最も池田の心を掴んだのは、元大蔵官僚で経済学者の下村治だ。この天才には、廃墟の日本を高度経済成長させる秘策が浮かんでいた。緻密な数式と膨大な事実収拾に基づいた政策を、池田は必死に理解しようとした。もちろん天才下村の言うことなど、池田が何割理解できたかわからない。ただし、その下村の策を実現できるのは、政治家池田勇人なのだ。ちょうど、大江広元が考え付いた世界史のどこにも存在しなかった「幕府」を、その何割かを源頼朝が理解して実現したように。池田と下村の関係は、政治家とブレーンの理想的な関係と言えた。

 池田の側近の誰も、池田ほどの勉強はしていない。池田は長年にわたる自らの学びを通じ、未来が見えていた。それを側近に話しても分かるはずがない。

「朝、仙人が来て言うんだ」

 自分には未来が見える。それを実現する責任を果たす。これはすべてを引き受ける覚悟のトップにしか言えない。

 池田が重大な決断を下すとき、常に側近たちは全員が反対した。しかし、最後には従う。従わせる魅力と説得力が、池田の政治家としての力量だった。

経済学の基本に忠実だった所得倍増計画

 昭和35年7月、池田は自民党総裁選に勝利し、総理大臣となる。目玉は「所得倍増」である。「国民の皆様が真面目に働けば、10年で月給を2倍にします!」と公約した。はじめ、多くの人はあざ笑った。だが、池田は真剣に訴えた。決して上手いとは言えない演説だったが、池田本人は大衆の中に入っていって語るのが好きだった。

 池田の月給2倍は、緻密な理論に基づいていた。だが、原理は簡単で、経済学の基本に忠実だった。

 大前提は2つある。

 第1が、1ドル360円の固定相場制である。60円のハンディをもらっているので輸出に有利である。当時は固定相場制なので、米国がドルを刷ると、「1ドル=360円」を維持するために、円も刷る。自動的なリフレ政策である。占領期にあらゆる理不尽に耐えながら「1ドル=360円」を認めさせた意味が生きた。アメリカ市場は日本製品に席巻される。

 第2が、政府が日銀に公定歩合を上げさせないよう、政治主導を確保した。金利が上がらない安心感は、インフレ期待を発生させる。平たく言えば、金利が安いので企業がお金を借りやすい。

 その上で、サイクルを確立した。

(1)企業がお金を借りて投資する。

 ↓ 積極的に投資をするので、商品の質が向上する。

(2)消費者が良い商品を買うので企業が儲かる。

 ↓ 企業が儲かるので、企業に余裕が生まれる。

 ↓ 給料が上がる。

 ↓ 個人にも余裕が生まれる。

(3)貯金をする。

 ↓ 安心が生まれ、人生設計ができる。

(4)貯金ができるので、安心してモノを買う。

 ↓ 消費が増える。

(1)に戻る

 経済成長率7%が無ければ所得倍増は無理だが、現実には最高13%に達した。人々の生活は急速に豊かになった。

政権運営は安定、議席率も史上最高

 前任の岸内閣の時代、安保闘争の嵐が吹き荒れ、一時はデモ隊を鎮圧するために自衛隊の出動まで検討されたほどだ。また、暗殺も行われる、不穏な時代だった。だが、池田は荒んだ人心を、政治から経済に移した。働けば、給料が上がる! 池田時代に目ぼしい政治闘争は起きなかった。

 これに切歯扼腕したのが、ソ連である。当時のソ連はアメリカと世界の覇権を争い、あわよくば日本でも革命を起こそうと企んでいた。安保闘争も、その一環である。ところが、人々がデモではなく職場に向かうのでは、革命どころか暴動すら起こしようが無い。

 池田の所得倍増とは、単なる経済政策ではなく、安全保障政策だったのだ。

 池田の時代、キューバ危機で、すわ世界大戦、米ソ核戦争かとの危機もあった。この時、池田は即座にアメリカを支持。大統領が民主党であったにもかかわらず、良好な関係を終始維持した。

 その上で、台湾、韓国、東南アジア(特にタイ)、オーストラリア、フランスなど、自由主義陣営の国々との友好を深めた。

 政権運営は安定し、自民党の議席率は単独で64%。史上最高の議席率である。憲法改正を封印しつつ憲法解釈は骨抜きにした。池田内閣の時代、内閣法制局の「憲法解釈は核武装も集団的自衛権の行使も合憲」だった。自衛隊に史上最高の予算がついたのも池田時代である。

引退後に本当にやりたかったこと

 池田は経済見通しが狂うたびに「公約違反だ」とマスコミに叩かれたが、最高権力者がマスコミに叩かれるのは健全な民主主義が機能している証拠だと割り切った。本当の意味での公約違反は、「10年で所得倍増」だった。これは7年で達成された。

 しかし、神は池田に寿命を与えなかった。昭和39年、東京オリンピックを花道に引退する。癌だった。7年目に所得倍増が達成された時、池田はこの世にいない。昭和40年に世を去っていた。

 生前の池田は、教育と憲法改正をやりたかったらしい。引退後は秘書の伊藤昌哉と全国行脚しながら青年教育を行いたかったとか。池田曰く、自分は自衛隊に戦車も大砲も軍艦も飛行機も付けた。しかし、本当に大事なのは国民が自分の国を自分で守ろうとする気持ちを持つことだ。もし国民が愛国心を持てば、憲法も自然と変わるだろう。総理を辞めたら、そういう教育をしたい。

 伊藤は、池田の実績を3つあげる。1つは言うまでもなく、高度経済成長により日本を世界の経済大国に押し上げたこと。2つは、アメリカ一辺倒ではない、世界政策を持ったこと。3つは、安保闘争後の騒然とした世上で、話し合いによる議会政治の土壌を守ったこと。

 しかし、それにもまさる池田の功績を挙げる。

 日本人の誰もが進むべき道を見失っていた時に、希望を示したことである。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
«  対策なければ... コロナ禍で「... »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。