見えていた日本の亡国、賢すぎた吉田松陰の誤算

 

倉山 満:憲政史研究者

見えていた日本の亡国、賢すぎた吉田松陰の誤算 日本の未来を見据えていた12人(7) | JBpress(Japan Business Press)

あまりにも焦りすぎた松陰は、若い命を散らした。賢すぎる松陰には、日本の亡国が見えていたのだろう。

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 天保元(1830)年、吉田松陰が長州に生まれた。初姓は杉、本名は寅次郎。4歳で吉田家の養子となる。松陰は、号である。

 松陰が生まれた頃、世界は白人が有色人種を圧倒し、地球上のほとんどを植民地としていった。その中でも、最強は大英帝国。七つの海を支配するチャンピオンである。そのイギリスの海洋覇権に挑戦していたのが、大陸の雄であるロシアだった。英露両国は対立しながら、オスマントルコ帝国、ペルシャ帝国、インドのムガール帝国、そして大清帝国と、世界中を食い荒らしていった時代である。

 幼き松陰は、山田宇右衛門や山田亦介(またすけ)に山鹿流兵学を学んだ。この時期の松陰は、神功皇后・北条時宗・豊臣秀吉を軍事的模範としてあげている。神功皇后と秀吉は朝鮮出兵の英雄、北条時宗は元寇を防いだ戦時宰相だ。朝鮮半島は日本の生命線であり、そこが大陸国家の手に陥落すれば日本列島は直ちに危機に陥るとの認識が、松陰の原点である。また宇右衛門は、松陰の視野が狭くならないよう、世界の大勢に通じた人物として亦介を紹介した。

 山田宇右衛門から「坤輿図識」、山田亦介から『世界地理書輿地志略』を与えられ世界地理を研究する。その結果、白人はインドそして清を侵略し、異国船が琉球や長崎にも出没している事実を知り、松陰は日本を取り巻く具体的な国際情勢を知って、国防意識に目覚める。

 ここで松陰は「白人」「異国」などという短絡的な理解はしていない。「異人」も一枚岩ではなく、彼らは競合的に日本に進出しているので、その上で敵味方を識別しなければならないと考えていた。

 松陰は、9歳で長州の藩校である明倫館の兵学師範になっている。それどころか、11歳で藩主の前で講義している。山鹿素行の『武教全書』を藩御進講した。畏るべき秀才だった。

 12歳の時、叔父の玉木文之進が松下村塾を開いた。アヘン戦争が終わった年であるが、少年松陰はまだその事実を知らない。

 1843年、松陰は長州軍の演習を指揮している。将来を嘱望された英才少年の道を、順調に歩んでいた。だが、祖国の危機に焦慮する松陰は、個人の栄達などまるで考えない。

幕府が情報封鎖していたアヘン戦争

 弘化2(1845)年、松陰はアヘン戦争の概要を知った。

 イギリスがアヘンを清に売りつけ、焼き捨てられたので報復した戦争として知られる。当のイギリスでもそのような意見があり、議会で若手議員のウィリアム・グラッドストーン(後に4度の首相)から「これほど不正な恥さらしな戦争はない」と糾弾され、271対262の僅差で開戦が可決された事実も、その根拠として持ち出される。ただ、これは一面的な評価である。

 清国には、英露だけでなく大国フランスや新興国の米国も食指を伸ばしていた。英国商人は麻薬であるアヘンの密売により暴利を得たが、これを清国欽差大臣(江戸幕府の大老に相当)である林則徐が厳重に取り締まり、一時的に米清貿易の総額が上がる。だが、アヘン戦争で清国が英仏露の草刈場と化していくと、小国の米国の存在感は再び低下する。「アヘン戦争」との名称は、米国が反英の立場で流布した政治宣伝文句である。現代に至っても英国人は忌避して「英清戦争」と称する。

 なお、江戸幕府にも情報が伝わっており、天保11(1841)年の『唐船風説書』に「無理非道」とある。英国の非道に清国が敗北したという、日本人の危機感の最初である。

 ちなみに、当の清国朝廷はまったく反省しなかった。魏源が地誌学書の『海国図志』百巻を編纂したりなどのいくばくかの努力は存在したが、それが清朝で省みられることはなかった。むしろ、『海国図志』は日本の知識人こそ、こぞって読み漁った。記録に残るところでは、松陰の他に、松平慶永・島津斉彬・横井小楠・川路聖謨・佐久間象山・橋本佐内・井上毅ら。身分の上下に関係なく広く読まれた。

 松陰のアヘン戦争に関する最初の筆記は、弘化4(1847)年の『外夷小記』である。表紙に「秘而蔵」とあるが、萩に保存されていた公文書を非合法に筆写したからである。ここには概略があるのみだが、幕府は混乱を警戒し、それすらも民間には情報封鎖をしていた。これの情報元は『唐船風説書』であり、さらに根本資料は清国商人の情報による「庚子十二月清商口単」である。『阿芙蓉彙聞』に収録されており、松陰は後に九州遊学で読破した。松陰は嘉永2(1849)年に『異賊防禦の策』を記して海防の重要性を説き、周囲には『阿片始末』を必読書として薦めた。時に19歳である。

 同じ年、「嘉永二年三月一日藩政府宛上書」では、南方からはフランスとともにイギリスが迫り、印度(インド)・豪斯多辣利(オーストラリア)・蘇門答刺(スマトラ)に次いで満清を侵蝕し、ロシアが止百里亜(シベリア)・加摸沙都加(カムチャツカ)の拠点から軍艦を繰り出して北蝦夷(北海道)を窺っていると指摘している。南からは海の覇者のイギリス、北方からは大陸の雄のロシアが日本の脅威となっている現状に警鐘を鳴らした。

『孟子』に倣う先進技術導入

 1851年には清で太平天国の乱が勃発している。松陰は『清国咸豊乱記』を書き、唐の時代の安禄山の乱に際して、奈良朝廷が筑紫に命じて「武備を厳にせしむ」故事に倣うべきであると主張している。

 清は満洲人を頂点とし、モンゴル・漢・チベット・ムスリムの主要5民族からなる、多民族帝国であった。長らく、漢民族は面従腹背の立場にあった。外国に対しなすすべがない満洲人ら支配層に対し、漢民族は不満を爆発させる。アヘン戦争に続く太平天国の乱は、まさに清国における民族分裂の危機だった。この流れを松陰は、かなり正確に理解した。

 松陰は『清国咸豊乱記』で、清朝の宮廷や社会へのイギリスの介入について詳細に記している。特に注目すべきは、学校建設や雇用創設により人心を掌握し、天主教布教と交易により「人情縦肆」にさせた点である。経済的利益を与えた上でキリスト教を布教する、まさに間接侵略の手口である。松陰は、これこそが太平天国動乱の遠因としている。

 また、乱は宗教戦争でも農民革命でもなく「盗賊一揆」とみなした。当初、太平天国の乱は明朝末裔による復辟運動であるとの誤報が伝わっていた。松陰は「漢土人夷満を悪むの情に投合す」と残す。しかし、正確な情報を知るや、キリスト教は侵略の道具と考えられていただけに、松陰の共感は急速に失われた。

 清国にも少数ながら「中体西用」を唱え、西洋の先進技術を導入しようとの思想が芽生えていた。これが実現したのは日本の「和魂洋才」である。自我が確立していなければ、先進的な技術や物量を誇る大国に飲まれてしまう。その意味で自らの寄って立つ思想をどこに置くか。松陰は、『孟子』を用いて持論を説いた。『講孟余話』では、孟子の「中華の風俗を絶対視し異民族でも制度儀礼で服せば中国として扱うが服さなければ憎む」との議論を紹介し、古の賢王は異民族の人を用いているのだから大砲などの技術は用いてよいとの結論を導き出している。

焦りすぎた松陰

 将来を嘱望されていた松陰は、江戸に留学していた。だが、22歳の時に脱藩してしまう。脱藩とは今の感覚だと、亡命である。変えるべき祖国を失い、根無し草となることだ。では何が理由だったのか。友達との旅行の約束を守るために藩命に抗したのだった。この頃から松陰の行動は、直情的に小さな爆発を繰り返していく。

 嘉永6(1853)年、アメリカとロシアが開国を求めてきた。松陰は何と、ロシアのプチャーチンの軍艦に乗り込もうとした。さらに翌年にはアメリカの黒船に乗り込み、ペリーに会おうとした。結局果たせず、松陰は自首して投獄される。だが、一躍全国規模の有名人となった。当然だろう。誰もが思うが、本当に実行する者はいなかったのだから。

 安政4(1857)年、松陰は松下村塾を引き継いだ。ここで松陰が多くの若者を育てたのは、あまりにも有名だ。高杉晋作、久坂玄瑞、山県有朋、伊藤博文、山田顕義、品川弥次郎、前原一誠・・・。幕末維新の動乱に斃(たお)れた者もいたが、明治に生き残って元勲となった者もいる。

 松陰は、自分が日本を背負うつもりで、いわば将軍になったつもりで勉強しろと指導した。また、集団授業でありながら、一人ひとりの塾生と向き合い個別指導を行った。特に、誰からも馬鹿にされていた劣等生の伊藤博文に「お前は周旋の才能がある」と長所を見出し、感激させている。事実、伊藤は将軍を超える元老として、大日本帝国を率いていく。

 だが、この頃は既に松陰の晩年であった。亡国前夜の祖国に、松陰は焦る。

 松陰は、安政4(1857)年に出版した『外蕃通略』で、幕府外交文書の様式を国体論から批判した。特に、新井白石は意固地から将軍を朝鮮国王と対等の「日本国王」としたが、外国の「国主」と対等の代表者である国家元首を将軍だと思わせただけと批判した。歴史に仮託しているが、御政道批判である。

 そして、翌年には時の老中・間部詮勝の暗殺を計画し、露見して投獄された。高杉晋作ら弟子が必死に止めたが、松陰の衝動は止まらなかった。当然だが、テロは江戸時代でも重罪である。

 翌安政6(1859)年、松陰は斬首される。享年29歳。辞世の句は、「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」と伝わる。

 日ごろは大言壮語しながらも、死刑の直前には醜態をさらす志士も多かったという。だが、松陰の最期はあまりにも立派だったと、首切り役人が記憶している。ちなみに、この首切り役人は、その人物が松陰だったとは知らない。

 あまりにも焦りすぎた松陰は、若い命を散らした。賢すぎる松陰には、日本の亡国が見えていたのだろう。

 ただ、一つだけ誤算があった。高杉晋作や伊藤博文ら、松陰の薫陶を受けた弟子たちが、決死の覚悟で討幕維新を成し遂げ、日本は救われた。それとも、日本を救うには自分の命を差し出さねばならないと考えてしまったのだろうか。

 あまりにも鋭敏すぎた松陰の心中は、今となってはわからない。

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