日本艦隊は飛行可能な偵察機もなく、ミッドウェー島に向かわせられた
日本側が先に米空母を発見する確率はゼロだった


合理性の無い方が負ける

1942年(昭和17年)6月5日にミッドウェー海戦があり、日本側は保有する正規空母4隻すべてを失い、搭乗員数百人と多くの海軍戦闘機を喪失した。

日本が戦勝から一転して敗戦に向かう契機となり、事実上日本海軍は全滅しアメリカとの生産力競争になり、当然ながら日本は生産力で劣っていた。

米側の戦力は空母エンタープライズ、、ホーネット、ヨークタウンの3隻で戦闘機26機、雷爆撃機126機だったが日本側はサンゴ海海戦で大破したヨークタウンは存在しないと考えた。
 
加えてミッドウェー基地所属の戦闘機27、雷爆撃機33、飛行艇32、B17など大型爆撃機23で、飛行艇や大型爆撃機に艦隊を発見される恐れがあり侮れなかった

日本空母艦載機は戦闘機105、雷爆撃機178、水上機34、偵察機2で航空母艦4隻、真珠湾攻撃と比較すると戦艦などは多いが戦力になる空母と艦載機が減少していた。

真珠湾攻撃では蒼龍、飛龍、赤城、加賀、翔鶴、瑞鶴の6隻に戦闘機120機、攻撃機144機、爆撃機135機の合計399機、ミッドウェーでは空母艦載機の合計は283機でした。


こうなった原因は1942年(昭和17年)5月4日から8日に行われた珊瑚海海戦で正規空母翔鶴が大破し、瑞鶴も多くの艦載機を失ったためでした。

敗因は珊瑚海海戦で既に現れており、日本艦隊はミッドウェー海戦と同じように戦い、実は同じように負けていました。

1941年12月8日の真珠湾攻撃から42年5月の珊瑚海海戦まで、日本海軍機動部隊はほぼ休みなしで戦い続け、一度も整備していませんでした。


これはミッドウェー作戦立案時に既に警告されており、第一航空艦隊(南雲機動部隊)の戦力はボロボロであり戦える状態ではなかったと言われている。

一方真珠湾でほぼ全滅した米艦隊は半年以上整備や訓練や休暇に明け暮れ、100%準備が整ったスポーツ選手のような状況でした。

日本空母機動部隊のスケジュールは恐らく大本営=陸軍が決めていて、およそどうでも良いと思われるような用事で空母を引っ張り出していた。


41年12月のウェーク島攻略、42年1月ラバウル攻略、2月のダーウィン空襲、42年3月のジャワ海掃討戦、42年4月にはインド洋に遠征してイギリス海軍と戦っている。

軍司令部は空母や航空機にはまったく無知で船の事もあまり知らず、真珠湾攻撃で「日本海軍は無敵」だと思い込んで休みなく戦わせた。

連合艦隊司令長官山本五十六は無論それらの知識があったが、本来は日米外交を取り仕切る官僚で、実際の戦闘に向いていたかは疑問がある。


ボロボロの空母と艦載機が休養十分の米軍機と戦わされた

珊瑚海海戦で空母と艦載機にかなりの損傷が出ていたにも関わらず、山本はミッドウェー島占領に乗り気で、米空母が現れるとは考えていなかったようです。

山本は何度もアメリカに駐在経験がありアメリカの工業力の凄さを知り尽くし日米戦争に反対したが、その山本もこれほど素早く米海軍が再建されるとは考えなかった。

米空母は修理中か準備が整わず出現しないという甘い読みで、日本側の空母艦隊はボロボロの状態だったのにミッドウェー島攻略を実施した。


日本側の準備不足はすぐ表面化し、作戦の大半を通じて偵察機を飛ばせず、したがって米空母を発見できる筈がなかった。

日本側の偵察機は巡洋艦などに搭載した水上機だが性能や運用面で空母艦載機より劣り、ミッドウェー飛行場所属のB17とは比較にならなかった。

日本側はなぜかミッドウェー島の大型爆撃機にも発見や攻撃されないと想定し、奇襲攻撃が成功するプランを描いた。


これほど日本側が焦った原因は1942年4月18日にミッドウェー島から発進した米空母ホーネットがB-25で東京、名古屋、大阪の都市を初空襲し、当然ながら日本国内では軍への批判が高まった。

ちなみにドーリットル空襲は美談のように言われているが民間人だけを標的にした攻撃で、昔も今もどのような基準に照らしても戦争犯罪です。

日本軍は第二次大戦の全期間を通じて一度も、民間人を標的にした攻撃を行っていません。


批判を受けた大本営は山本五十六率いる日本海軍にミッドウェー島を占領し空襲を不可能にするよう指示し、山本はボロボロの空母機動部隊をミッドウェー島に向かわせた。

空母機動部隊に必要だったのは攻撃ではなく休暇と整備で、真珠湾攻撃以降の半年間で完璧な状態にしておくべきでした。

もし日本海軍が空母機動部隊に十分な休養と整備を行っていたら、珊瑚海海戦もミッドウェー海戦も、日本側が勝利していた可能性が高い


結局の所日本側は、人や機械をぞんざいに扱った事で負けたのだと言えます