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光る君へ】母・紫式部に猛反発した「賢子」 貴公子たちと浮名を流し大出世するまで
【光る君へ】母・紫式部に猛反発した「賢子」 貴公子たちと浮名を流し大出世するまで - ライブドアニュース
描かれた母と娘の確執
まひろ(吉高由里子、紫式部のこと)は中宮彰子(見上愛)のもとに参上し、「一度、里に下がることをお許しいただきたく」と願い出た。「久しぶりに老いた父と娘の顔を見て参りたいと存じまして」というのが理由で、最初は戸惑った彰子だったが、「娘も淋しい思いをしているに違いない」と承諾した。NHK大河ドラマ『光る君へ』の第37回「波紋」(9月29日放送)。
【画像】母・まひろに怒りをぶつけた賢子
だが、帰宅してみれば、10歳になった一人娘の賢子(梨里花)はよそよそしい。それにもかかわらず、その晩、食事の席で酔ったまひろは、賢子らの前で、道長(柄本佑)の邸である土御門殿での宴の様子を、「お菓子もお料理も食べきれないくらい並んでいたの」などとはしゃぎながら語った。日ごろ貧しい生活を強いられている賢子の表情は、ますます硬くなってしまった。
成長した賢子を演じるのは梨里花(NHK公式YouTubeより)
そして、彰子からまひろのもとに、早々に戻れとのお達しが届いたのち、賢子は母親に言った。「いったいなにしに帰って来られたのですか? 内裏や土御門殿での暮らしを自慢するため? 母上はここより、あちらにおられるほうが楽しいのでしょ? 母上が嫡妻ではなかったから、私はこんな貧しい家で暮らさなければならないのでしょ? 母上なんか大嫌い!」。
賢子が泣きながら駆け去ってから、父の藤原為時(岸谷五朗)はまひろに言った。「おまえがいない間、あの子の友は書物であった。おまえによく似ておる」。
可能性はゼロに近い「道長との不義の子」
ところで、『光る君へ』では、賢子は道長とのあいだに産まれた不義の子ということになっている。第26回「いけにえの姫」(6月30日放送)で描かれたのは、石山寺(滋賀県大津市)に参詣したまひろが、道長とばったり遭って繰り広げたラブシーンだった。しばらくしてまひろは妊娠したが、夫の藤原宣孝(佐々木蔵之介)が会いに来なかった時期に身ごもったので、道長の子だという設定である。
たしかに『源氏物語』は、不義の子がテーマのひとつである。たとえば、光源氏が憧れの的だった藤壺中宮と不義の関係をもち、産まれた子が、桐壷帝の子として冷泉帝になる。むろん、『源氏物語』には紫式部の実体験も反映されている。そのことをわかりやすく示すために、ドラマでは賢子を「不義の子」にしたのだろうが、史実において、彼女が道長の子であった可能性は、かぎりなくゼロに近いと思われる。
それはさておき、長保3年(1001)4月に宣孝が急死したのは、長保元年(999)ごろに生まれた賢子が、数え3歳くらいのときだった。ちょうど同じころ、紫式部の父で『光る君へ』では岸谷五朗が演じる藤原為時が、越前守(福井県北東部の長官)の任期を終えて帰京しており、そのことは紫式部にとっても、賢子にとっても、幸いだったといえるだろう。
為時の帰郷後は、為時、紫式部、賢子の3世代に、紫式部の弟でドラマでは高杉真宙が演じている惟規も加わって、為時の家で暮らすことになったと考えられる。
母親と滅多に会えない生活
それからしばらく、賢子についての記録はほとんどない。だが、おそらくは宣孝を失って間もないころ、賢子が患ったときに、紫式部が母親の気持をこめて詠んだ歌が『紫式部集』に残されている。
「若竹の おひゆく末を 祈るかな この世を憂しと 厭ふものから(若竹のように幼い娘が、無事に成長してくれるように私は祈ります。この世は住みづらいところだと思っているけれど、娘はちゃんと成長してほしい)」
宣孝が死去した年は、年末に皇后定子も急死している。この歌が詠まれたのが定子の生前か死後かわからないが、生に絶望しながらも、わが子の健やかな成長だけは祈るという、親の切実さが表されている。
その後、紫式部は道長に請われ、中宮彰子のもとに出仕した。『紫式部日記』の寛弘5年(1008)12月29日の条に、「初めて参りしも今宵のことぞかし(はじめて出仕したのも同じ日でした)」と書かれており、寛弘3年(1006)か同2年(1005)の12月29日だったと考えられている。おそらく賢子は数え7歳か8歳だった。
『光る君へ』の第37回で描かれた母娘の対面は、寛弘5年(1008)の話である。そのころ賢子は、父親がいないうえに、母親とも2年から3年にわたって滅多に会えない生活を送っていたことになる。ドラマで描かれたように、母親に対して素直になれなくても当然だったように思われる。
数々の貴公子と流した浮名
その後、賢子の消息がはっきりするのは、長和6年(1017)ごろのことだ。数え18歳くらいになった賢子は、母と同じく中宮彰子の後宮に女房として出仕した。ドラマで為時がまひろに言った「おまえによく似ておる」という言葉は、的を射ているのかもしれない。それまでの間、祖父の為時は寛弘6年(1009)、太政官の職である左少弁に任じられ、さらに同8年(1011)には、越後守(佐渡を除く新潟県の長官)として赴任した。このため、賢子は宮廷で「越後の弁」と呼ばれることになった。
文学的才能も母親譲りだったと思われる。鎌倉時代に女性歌人36人の歌を集めた「女房三十六歌仙」には、紫式部と並んで選ばれている。百人一首の歌人でもある。『大弐三位集』という歌集も残している。この歌集には、祖父の為時が訪ねてきたときに慰めの言葉として詠んだという以下の歌も収められている。
「残りなき このはを見つつ 慰めよ 常ならぬこそ 世の常のこと(木に残り少ない木の葉を見ながら、心を慰めてください。葉が散るように無常なのが、この世の常なのですから)」
その後の生き方も、ある意味、母親からの影響が大きかったのだろうか。というのも『源氏物語』よろしく、数多くの貴公子と浮名を流したのである。たとえば、藤原頼宗(道長が第2夫人の源明子に産ませた次男)、藤原定頼(藤原公任の子)、源朝任(道長の正妻である倫子の兄の子)。さらには、道長の次兄、道兼の次男の兼隆と結婚して娘を産んだという説もある。
天皇の乳母になって大出世
そして、万寿2年(1025)に、道長の六女の嬉子が産んだ親仁親王の乳母に任ぜられてから、大きく運が開けた。長暦元年(1037)までに、東宮権大進の高階成章と再婚して一男一女をもうけ、寛徳2年(1045)に親仁親王が即位すると(後冷泉天皇)、典侍(後宮の事実上の長官)に任ぜられた。なにしろ天皇の乳母なのだ。官位は最終的に従三位にまで上りつめている。
位階のない女房だった母はもとより、正五位下止まりだった祖父をはるかに超える出世を遂げたのである。そして、夫の高階成章がかつて、太宰府の次官の一人、太宰大弐の役職にあったことから、夫の「大弐」と賢子の位階の「三位」を組み合わせて「大弐三位」と呼ばれた。前出の歌集『大弐三位集』は、この名に由来する。
成章が天喜6年(1058)に没したあとも活躍を続け、没年ははっきりしないが、承暦2年(1078)に行われた歌合に参加した記録はある。歌人として認められ、女房としては明らかに母を超える活躍をしたといえる賢子。『光る君へ』で描かれたような母との確執は、もしかしたらあったかもしれないが、だからこそ母の背中を追いかけ、ある意味、乗り越えた人生だったのではないだろうか。
香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。
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