誰もが、現状を受け容れるしかないと、諦めている時代。己の力で、天下を正した人物がいた。

 あらゆる強敵と戦い全戦全勝、瞬く間に世の中を平らげた。そして非業の最期を遂げた。

 怜悧で意志の強かったこの人物は、戦いを決意した時、畳の上で死ねないと覚悟しただろう。しかし、未来の為に戦い続けた。

 足利義教あしかがよしのり)である。

 室町幕府6代将軍くじ引きで将軍に選ばれ、生前から「万人恐怖」「薄氷を踏む」と恐れられ、「悪御所」と陰口を叩かれた。そして暗殺された後は「公方犬死」と酷評された。

 義教の死から26年後、室町将軍の権威は応仁の乱により失墜。義教の暗殺が幕府の崩壊の遠因であると評価されてきた。義教の死が1441年室町幕府の崩壊は1573年とされる。

 だが、一つの事実にも、様々な尺度があるはずだ。確かに、義教の暗殺は将軍権威の失墜に他ならない。ではなぜ、その後の室町幕府130年以上も命脈を長らえたのか。

 義教の遺産である。生前の義教が構築した室町幕府の機構は、多くの風雨に耐え残存し続けた。現在の通説では、室町将軍の権威失墜と事実上の戦国時代の始まりは、1493年の明応の政変だとされる。この時、下克上により将軍は廃位され、親衛隊たる奉公衆は解体された。ただしその後も、官僚機構である奉行衆は残存し、細川・大内・三好・松永・織田といった将軍をも凌駕する歴代権力者も統治を彼らに依存せざるを得なかった。奉公衆も奉行衆も事実上は義教が構築した組織である。言ってしまえば、室町幕府は義教のおかげで戦国時代にも生き残れたのだ。

 そして義教が将軍になる前の時代は、どんな時代だったか。

 くだらない時代である。義教はくだらない時代に切り込み、本気で戦ったから嫌われたのだ。では、どれほどくだらない時代だったか。

朝廷に介入して“制圧”

 義教は応永元年(1394年)、3代将軍義満の子として生まれた。幼名は春虎。父の義満は日本中で逆らえる者がいない、絶対的な権力者だった。義満は次男以外の子供たちを、寺に入れた。春虎は青蓮院(現在の京都市東山区)に入れられた。僧名は義円(ぎえん)。聡明な義円は、25歳で比叡山延暦寺の頂点である天台座主に登り詰めた。その英才ぶりは開祖・伝教大師最澄以来とされ、年功序列でも家柄でもなく、学識が認められてであった。

 その頃は4代将軍義持の治世、義円の兄である。この人物は、世間の評判が良い、くだらない政治家だった。

 義持は父義満に嫌われ、足利家を継げないのではないかと噂されていた。義満の死後に守護大名たちは一斉に義持を支持、足利家当主の地位を継いだとの経緯があった。このような経緯のある将軍が、大名たちに逆らえるはずがない。義持は何事も有力守護大名たちとの談合により、事を進めた。この談合には幕府実力者だけでなく、公家・寺社・豪商なども加わる。この人々は、既得権益層を形成する。そして政治は、既得権益層の利害調整と大衆からの搾取に終始する。義持は死の直前、自らの後継者を決めることができなかった。実力者たちが合意しなければ無意味だとの、諦念である。この、最高権力者の無責任。やりたい放題の大名たちに将軍は無力で、政治は無きに等しかった。

 実力者たちは、義持の4人の弟に白羽の矢を立てた。全員が僧籍にある。だが、本命は4人の中で最年長の青蓮院義円である。もし、ここで義円が首を縦に振れば、大名たちは挙って将軍に推戴しただろう。自分たちの傀儡として。

 現実には、足利家当主と将軍の後継は、石清水八幡宮でのくじ引きに委ねられた。そして、義円が引き当てられた。還俗、元服して義宣(よしのぶ)と名乗った。義宣は「神意」を強調し、やがて独裁的に振舞い、幕府実力者たちと軋轢を繰り返していく。

 政治のイロハを知る者ならば、本当に将軍後継をくじ引きなどに委ねるはずがない。常識で考えれば、義円と幕府実力者たちとの談合による演出に決まっている。そして、暗闘があっただろうことは想像に難くない。「神意」を強調する義宣に対し、「くじ引き将軍」と吹聴する世間。室町時代には「京雀」による世論形成がしばしばなされており、敵対勢力への誹謗中傷を流して政治的立場を貶める工作も行われていた。それが京都の政治空間だった。「神意」を強調し傀儡になることを拒否する義宣に対し、既得権益層は「くじ引き将軍」と貶める。緒戦の激しい鍔迫り合いだった。

 義宣は、勝てるところから戦いを挑んだ。時の後小松上皇は、義宣を軽量将軍と見て、権威回復闘争を挑む。だが、義宣は乱れに乱れた朝廷の綱紀粛正を名分に、朝廷に介入する。男女間の乱脈、儀式での遅刻・・・、料理人に至るまで弛緩していた。ここに義宣は「帝に仕える身で何事か!」と喝を入れ、厳罰で臨んだ。いかなる名門貴族も遠慮しない。またたくまに上皇も公家も沈黙した。そして義宣は、自らの名を「世を忍ぶに通じる」と捨てた。自ら「足利義教」と名乗る。本音は明らかに朝廷よりもらった名を捨てたのだ。ここに後小松上皇は沈黙した。

 ただし、義教は尊皇家である。上皇の意向を汲み、後花園天皇を擁立した。のみならず、新帝の教育にも心を砕いた。

改革を貫徹し、5つの成果

 さて、義教はあらゆる改革を行い、退く時は退いたが、最後は必ず意思を通した。その成果は、主に5つである。

 第1は、親衛隊の整備である。文字通りの将軍御馬廻衆、奉公衆を整備した。先代義持の時に弛緩していた奉公衆を復活強化した。

 義教は、有力大名家の次男や三男を取り立てた。彼らは家を継がず、働き場がない。その彼らの中で実力があるものを自らの股肱とし、政権基盤とした。一般に、同一民族の有力貴族の子弟で編成された常備軍は、傭兵や外国人からなる奴隷の如き軍より強い。この時代、常備軍を備えているのは、オスマントルコ帝国くらいだろうか。オスマン帝国は、イエニチェリやシパーヒーのような精強な軍で知られる。前者は征服した外国人からなる歩兵。後者は有力貴族の子弟からなる騎馬兵である。混成のオスマントルコに対し、義教の奉公衆は同じ日本人による軍隊である。奉公衆は決戦兵力として重用されたし、平時にも将軍の御馬廻りに存在するだけで大名たちを威嚇した。京都において将軍御馬廻衆は、大名の兵力の数倍の数であった。

 第2は、官僚機構の整備である。複雑怪奇な利権構造の当時の体制に対処するため、義教は自前の官僚機構を整備した。奉行衆である。当時は、裁判と行政と陳情処理の区別が希薄である。裁判と称する行政は、実力者たちの利権調整の場と化す。

 最初義教は、古代さながらの盟神探湯(くかたち:呪術的な裁判)を行った。社会が複雑化し、裁判がゲームと化し、法と称するルールを操った者が勝つ状態となっていたからだ。賄賂も横行していた。そうした風潮を義教は、己の絶対的な権力で抑え込もうとしたのだ。だが、これでは法は成立しないし、行政ではない。そこで統治をおこなえる官僚を養成したのだった。

 第3は、信用経済の促進である。後年まで、勘合貿易は室町幕府の巨大な財源となった。貨幣経済を浸透させ、商人たちを富ませ、その上がりを政治資金とした。室町時代は、民の力が強まる時代である。一揆や暴動が多発し、事あるごとに戦乱で家が焼ける時代だが、為替のような信用経済が発達したのも、室町の日本なのである。

 第4は、諸侯と宗教勢力の制圧である。

 有力守護大名の内、斯波・畠山・山名・赤松・京極・大内が家督相続に介入を受け、一色・土岐などは当主が粛清されている。唯一無傷だったのは細川だけで、これは当主の持之が人畜無害で無能な人物だったからである(嘉吉の変の際、恥も外聞もなく壁をよじ登って逃げ、事件後の事後処理も大いに手間取り大恥をかいた)。

 比叡山延暦寺は宗教勢力の団体であり、あからさまな利権要求で歴代政権を悩ませたが、義教は古巣を追い詰め、焼き討ちにした。

 南北朝合一後も吉野山中に籠って抵抗を続けていた、南朝の残党への撲滅を宣言。後南朝を壊滅に追いやった。

 義教は増長する既得権益層に鉄槌を下した。逆らうものは日本中を追いかけまわし、北は青森、南は琉球までを支配下に置いた。琉球は、功のあった島津家に下賜された。

 それまでも琉球は完全に日本文化圏にあったが、形式的に琉球の統治権を明示したのは「嘉吉元年島津忠国宛足利義教感状」である。しばしば琉球は「日中両属」などと言われるが、義教以前にも以後にも、歴代中華王朝が琉球を実効支配したことはない

 第5は、王権神授である。

 義教はその治世の最初に、源氏の氏神である石清水八幡宮の御神託で将軍の地位に就いた。自分は神に権力を与えられた身であり、地上のあらゆる者に跪かないとの姿勢で、既得権益層に対峙した。

 さて、この5つ。ヨーロッパに先駆けた、絶対主義である。義教は本場のヨーロッパよりも先に、より完全な絶対主義を完成させた。義教に匹敵する絶対主義をヨーロッパに見るとしたら、約200年後のフランスに現れたリシュリュー公爵であろうか。リシュリューは、王と国家の為に抵抗勢力を、徹底的に破砕し続けた。

 ブルボン家と同じように義教は、朝廷の権威向上に努めた。

 将軍家に対し、まるで独立国であるかのように振る舞ってきた、鎌倉公方足利氏を義教は討伐した。永享の乱である。この時に義教は、後花園天皇から治罰の綸旨を賜った。効果は絶大で、錦の御旗の前に鎌倉公方の軍は雲散霧消した。

信長は義教に憧れていた?

 義教は、将軍就任から13年、天下統一を果たした。平清盛源頼朝足利尊氏を超え、義教は日本の最大版図を実現した。また義教はそれを、豊臣秀吉徳川家康よりも不利な状況から成し遂げた。

 あとは、後継者が育つのを待つだけだった。義教は還俗してから多くの男子を残していた。それが自らの使命であると自覚して。だが、34歳まで僧籍だった義教の長男の義勝は、嘉吉元(1441)年には7歳だった。

 この年、義教は嘉吉の変で暗殺されてしまう。粛清を恐れた家臣の赤松満祐の、自暴自棄の行動だった。義教の優秀な側近は刀を取って戦い、討ち死にしてしまう。決して人望が無い将軍ではなかった。赤松一族は討伐を受け、流浪の身となる。何の為に将軍暗殺などと大それたことをしたのか、誰かを犠牲にしてでも一族を守る武士としては異常な行動だった。頭が良すぎた義教には、非合理な行動をする人間の行動は理解できなかったかもしれない。

 義教の死で幕府は動揺するが、それでもその死後約120年も長らえるだけの遺産を残していた。

 義教の先代の義持時代は「みんなが納得する世の中」だった。では「みんな」とは誰か。

 既得権益にありつける人々である。義持は既得権益層の利益代表として祭り上げられていただけである。問題が無いから争いごとが無いのではなく、大談合により争いごとを無理やり封じ込めたから問題が無いように見えただけなのである。

 義教が将軍に就いたのが34歳。人生50年時代の7割である。平穏な人生を送ることも可能だったのに、あえて捨てて戦いの道に飛び込み、満年齢47歳で非業の死を遂げた。

 この数字をなぞっている人物がいる。織田信長だ。ちなみに、名字が「あ」、名前が「み」で始まる人物に暗殺されたところまで同じだ。

 しばしば、信長は「天才」「超人」とされる。信長は義教に憧れて努力した節がある。信長は志半ばだったが、義教は日本一統を実現した。

 足利義教こそ日本史に残る真の「天才」「超人」である。絶望的な現状を打破し、未来を切り開くには、義教のような人物が現れねばならないのかもしれない。

 

足利義持の死後、次期将軍を決めるくじ引きが行われた京都の石清水八幡宮(出所:Wikipedia)