膨大な情報に囲まれて"わかったつもり"の現代人へ。解剖学者・養老先生が語る「わかる」ということの本質。
養老孟司(ようろう・たけし)/'37年神奈川県生まれ。'62年東京大学医学部卒業後、解剖学教室に入る。東京大学名誉教授。医学博士。解剖学者。『バカの壁』ほか、『唯脳論』『「自分」の壁』『遺言。』『ヒトの壁』『子どもが心配』など著書多数
「勉強すれば何でもわかると思っていた」
―本書のタイトルにもなっていますが、どうして「ものがわかる」ということについて考えたのでしょうか?
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私だって若い頃は、勉強をすれば何でもわかるもんだと思っていたものです。その時は理解できないことでも、いずれわかるだろうと考えていました。ところが、80代も半ばを過ぎた今になっても、わからないことはわからない。では「わかる」という状態とは何なのか。それを説明してみたのが、この本です。
―この本ではまず「世の中(社会)と、自分(個人)に対する一般的な理解が間違っている」と語ります。多くの人は「自分が変わらないのに社会がどんどん変化する」と考えているが、それは思い込みにすぎないと書かれています。
自分自身が変わらないなんてことはなく、刻々と変化しているんです。たとえば、部屋に暖房がなかったらどうです? 「こんな寒いところで仕事なんかできるか」とみんな帰ってしまうかもしれない。人の気持ちは感覚によってコロコロ変わるんですよ。
また私はよく、「自分が3歳の時の写真を見てごらん。同じあなたですか?」と言います。同じであるはずがないでしょう。科学的にも、全身の細胞は分子レベルですべて入れ替わっていますよ。
人間を物質として捉えてみたところで、まったく同一ではない。しかもその状態は日々進行し続けている。こう考えれば「自分は変わらない」なんてウソだということがわかるはずです。
「自分は自分」「個性を大事に」はバカな話
―心や意識についても、養老さんは身体としての「脳」の働きをもとに考えられていますね。
脳というのはとても面白いものです。たとえば今、私が目の前にあるお菓子を食べたとします。意識の上では「お腹が空いていたからだ」と思うかもしれません。しかし実際には「お腹が空いた」と思うより先に、手が動いているんです。脳は後から、理由づけをしているにすぎません。
脳の機能や心と意識の問題についてはまだ解明されていない点が多すぎるけれど、脳の働き次第で心や意識もどんどん変化していくと私は考えています。ところが近代以降の人々は、自分を自分の意識の内だけに閉じ込めようとするんです。自分が変化しない前提で「個性を大事に」なんて唱えるのは、まったくナンセンスなんですよ。
―なるほど。現代人は、自分で自分を閉じ込め、もがいているわけですか。
スーッと息を吸ってみてください。その肺に入った空気は、自分ですか? 外界ですか? どうしても人間は体表から内側が自分、と決めつけてしまうけれど、そんな境界は実はないんです。
私は「田んぼは将来のあなただ」なんてこともよく言います。田んぼではイネが生育して米が実りますが、それを食べれば自分の身体の一部になります。魚を食べれば、海が自分の身体の一部になる。そんな風にずるずると周辺とつながってしまっているのが人間の身体なんですよ。
その周辺のすべてを遮断して「自分は自分だ」「個性を発揮せよ」と言うのはバカな話だと思います。もっと素直に、自分の変化を受け取っていかなくてはなりません。
自分自身が変化しながら「わかる」を積み重ねていく
―そうした前提がないと、「わかった」と思ってもただの錯覚になってしまう、というのが先生のお考えですね。
どうやら脳には「刻々と変化する自分をうまく扱えない」という特徴があるようです。なので自分自身が変わっていくことを恐れ、固定化された情報を摂取することで「わかった」と思い込んでしまうのでしょう。
脳も人間の身体の一部である以上、筋肉運動の連携で働きます。そのため、真に「わかる」ためには身体を伴った理解が必要だと私は考えます。そうでなければ腑に落ちないし、学びや理解を応用していくこともできない。
何かを「わかる」ためには、人は変化なく整えられた都市で過ごすよりも、勝手に移ろって変化する自然の中で五感を使った体験をするべきなんですよ。それなのに多くの人は外の世界に目を向けようとしない。つい先ほども、道でスマホを見ながら歩いている男にぶつかりそうになりました。
スマホばかり見てないで、たまには飛んでいるカラスを眺めてみればいいのにね(笑)。そのほうが「わかる」ということに近づけるはずですよ。
―「老化」も変化の一種だと思いますが、老化については先生はどうお考えですか?
しょうがない、と思っていますね。脳の神経細胞が新しく作られることは少なく、「ゴミ」を排泄する機能もないので縮んでいくいっぽうです。私の脳みそも、だいぶ縮んでいると思いますが、そこは素直に受け止めておけばいい。「ボケたらボケたで、それも自分」くらいに私は捉えていますね。
「わかる」ということについて考えてきましたが、一から十まですべてが「わかる」というわけにはいかないです。部分的に了解しながらなんとか回しているのが、この世の中というもの。自分自身のことでも世間や他人との付き合いでも、いくら理解しようとしても完全にわかりはしない。「わからん」と思い煩ったところで、そう簡単に打つ手は見つからない。
老いだって同じです。いずれ必ず人は死ぬのだから、死んだらケリがつくと考えるしかないんです。それまでは自分自身が変化しながら「わかる」を積み重ねて、生きていけばいいんです。
(取材・文/窪木淳子)
「週刊現代」2023年3月4日号より