ソ連軍将校に乱暴されそうに…「軍国少女」だった澤地久枝氏

【ニッポンの新常識】戦争を実体験した女性作家 安保法案「反対」の矛盾に疑問 K・ギルバート氏

 先日、満洲で終戦を迎えたときに14歳だった、女性作家のラジオ番組を聴いた。先の戦争を実体験した人ならではの話は、とても興味深かったが、私には論理矛盾が気になった。

 ご本人も気付いていない様子だったので、少し指摘してみたい。

 1945年8月9日未明、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄して、満洲や樺太、千島列島への侵略を始めた。1週間もせずに日本政府はポツダム宣言を受諾した。満洲に駐留する日本軍も武装解除された。彼女は銃が積み上がる様子を窓から実際に見たという。

 その後、満洲では中国人やソ連兵による暴動や略奪が相次いだ。家財はおろか、命を奪われた日本人も少なくない。武装解除のせいで日本軍が日本人居留民を守れなくなったからである。

 彼女自身も、ソ連軍将校に強姦されそうになったという。激しく抵抗した後、物置に隠れて難を逃れた。母親も娘を守ろうと必死に抵抗したそうだ。ちなみに母親の行動は正当防衛に当たるが、これは個人レベルの集団的自衛権行使と言い換えることもできる。

 彼女は現在、憲法9条を信奉し、反戦平和運動を行っているが、戦時中は「軍国少女」だった。国のために命をささげる覚悟だったのに、国とは一晩で無くなるものかとむなしく感じたそうだ。平穏な日本人居留地の治安が崩壊したことを、「国が無くなった」と表現したのだろう。

 繰り返しになるが、ソ連兵などの暴動や略奪の原因は、敗戦による日本軍の武装解除である。つまり、強い軍隊がいなければ、国は国民を守れないという現実を彼女は実体験として知っている。

 それなのに憲法9条を信奉し、国の自衛権を強化する安全保障関連法案に反対する矛盾を、頭の中でどう処理しているのか、不思議である。

 学徒動員兵の遺書を集めた『きけ わだつみのこえ』が反戦平和運動に転向したきっかけと話していたが、あれはGHQ(連合国軍総司令部)の意向を受けたプロパガンダ作品との指摘がある。

 大本営発表の洗脳から、GHQのWGIP(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)の洗脳へと自動スライドしただけで、彼女の人生は、ずっと洗脳状態にあるのではないか。

 「自分自身の頭でよく考えるべきだ」と、彼女は呼びかけていた。まったくその通りである。まずは自分の頭の中にある古臭い常識を最新版にアップデートしたうえで、彼女自身がもう一度、自分の頭で考えてほしい。

 ■ケント・ギルバート  米カリフォルニア州弁護士、タレント。1952年、米アイダホ州生まれ。71年に初来日。83年、テレビ番組「世界まるごとHOWマッチ」にレギュラー出 演し、一躍人気タレントとなる。現在は講演活動や企業経営を行う。自著・共著に『まだGHQの洗脳に縛られている日本人』(PHP研究所)、『素晴らしい 国・日本に告ぐ』(青林堂)など。

ソ連軍将校に乱暴されそうに…「軍国少女」だった澤地久枝氏の『帰還』

 ノンフィクション作家の澤地久枝さんは14歳のとき、旧満州・吉林で終戦を迎えた。先の大戦中は「絵に描いたような軍国少女」だったと自ら認めて いる澤地さんの目に、日ソ中立条約を破って侵攻してきたソ連軍はどのように映ったのか、近著『14歳〈フォーティーン〉 満州開拓村からの帰還』(集英社 新書)から探ってみたい。(溝上健良)

「予科練に入りたい」と願った

  澤地さんは最近、弟の孫が14歳になったのを機に、当時の体験を孫世代に伝えるために書くことにしたのだという。7月に都内で行われた講演で、澤地さんは 「私の身辺に小さな子供たちがいて、戦中戦後の日本人の生活がどのようなものであったかを伝えようといろいろと試みたが、なかなか言葉が通じない」経験を したことが、執筆のきっかけになったと明かした。

 昭和5年、東京に生まれた澤地さんは、父の仕事の都合で満州に渡った。女性ながらも《予科練(海軍飛行予科練習生)へ入りたいと願うのは、戦闘機乗りになって、「決戦」の場に出てゆき、死ぬためなのだ》

と “軍国少女ぶり”を記している。終戦当時は吉林高等女学校の3年生だった。終戦間近になると学徒動員で開拓団に送られるなど、ソ連が満州に侵攻してきたこ とから女学校も野戦病院となり、そこに動員されているうちに敗戦を迎える。ちなみに満州に住んでいた人たちにとって「中国との戦争」という意識は薄かった ようで、澤地さんは《日中戦争は昭和十二(一九三七)年にはじまり、いつ終ったのか、どちらが勝ったのか。少女は「中国との戦い」を、ほとんど考えていな い。敵はアメリカとイギリス、そして最後にソ連になる》と記している。

 20年8月9日の未明、吉林でも飛行機の爆音が聞こえ、空襲警報のサイレンが鳴る。《午前一時ころ、満州各地が爆撃されたとあとで少女は知る》 《「味方」と考えていたソ連も敵になった。戦うのは日本一国である。「絶対」ということはなくなる》。ソ連の裏切りで、日本(と満州国)は孤立した。

  この事態について、澤地さんは作家、半藤一利氏の文章を引用して《敗北を予見したドイツ海軍元帥デーニッツは、降伏の四カ月前から、水上艦艇の全部を、東 部ドイツからの難民と将兵を西へ移送するために投入した。「ソ連軍の蹂躙(じゅうりん)から守るためである」と》と記す。その前後を意訳すれば、ドイツは 自国民保護に力を尽くしたが、日本は満州の日本人を見捨てたと主張したいようだ。しかし、一方的に条約を破って終戦直前のどさくさに侵攻してきたのはソ連 ではなかったか。

 ここから学ぶべき教訓は、国際条約などというものは簡単にほごにされてしまうということに加え、他国の背信行為があった ときにも自国民を守るためのきちんとした軍隊と、世界情勢を見誤らないための実力ある情報機関が必要だ、ということであろう。付言すれば、条約を守らない のはソ連に限らない。1907年に改正されたハーグ陸戦法規(条約)では、戦争後の占領者は絶対的支障がない限り占領地の現行法律を尊重しなければならな いと規定されていた。米国が日本に憲法を改正させたのはこの条約違反である可能性が濃厚だが、そこは「勝てば官軍」で不問に付されている…。

 話を本書に戻すと、やがてソ連軍が少女・澤地さんの住む吉林にも進駐してくる。ソ連軍の将校2人が自宅に押し入ってきて、澤地さんが乱暴されそうになった経緯が記されている。兵士ではなく将校がそうした行為に及んだという点からも、ソ連軍の軍紀の乱れがうかがわれる。

  講演でも「その恐怖はずっと残っていて、1972年に世界一周の旅をしたときに、飛行機がモスクワの空港に下りたんですね。それでタラップを降りていった ときに私は凍り付いたようになったんですね。両側にソ連軍の兵士が銃を構えて立っていたんです。もう二十何年たっていましたが、サーベルを突き付けられて 引き寄せられて、必死になって逃げたときの恐怖がよみがえってきて、もう動けないような状態になりました」と澤地さんは振り返っていた。

残された女性たちの運命

  澤地さんの場合は未遂で済んだわけだが、もっと悲惨な事例も多くあったことだろう。平成11年に邦訳が出た『強姦の歴史』(ジョルジュ・ヴィガレロ著、作 品社)は第5部には2度の世界大戦があった20世紀について書かれているが、澤地さんは《その時代がどう書かれているか、非常な関心を持っていたのだが、 「戦争と強姦」のテーマから著者は完璧に逃げている》と手厳しい。

では、澤地さん自身は本の中で満州にいた日本人女性の境遇についてどう書いているだろうか。《敗戦後の満州を書いた本のなかに、陵辱した男たちにつ いて、ソ連軍人のほか、中国人があり、朝鮮人がある。夫やわが子の目の前で犯され、自殺したひとの話など、日本人の歴史の負債のようなことが、実際に起 こったのだ。人間の欲望と征服欲の分かちがたい行為として》《吉林の内戦は、このとき国府軍(注・中国国民党軍)の勝利に終り、共産軍は松花江にふたつあ る橋を爆破して引いていった。その夜から、国府軍軍人による「女狩り」がはじまる》との記述があるが、これでほぼすべてである。これは致し方ない面もあり そうだ。

 ひとつは、中学生くらいの子供向けに書かれた本であること。もうひとつには、例えば高等女学校の同級生がどんな目に遭ったかとい うことは、その人の名誉のためにも軽々しくは書けない、という事情もあっただろう。実際、同級生たちが戦後、どうなったのかについてはほとんど触れられて いない。その少ない記述の中に《このひと(注・同級生)が引き揚げ後に、鉄道で投身自殺をするなど、誰が想像しただろうか》との一文がある。自殺の理由に ついては何も書かれていないが、あるいは…と思わされる。

 ともかくも1年間の難民生活の末、澤地さんは日本への帰国を果たした。一方で中国の土となった日本人も多くいた。また、帰国までにさらなる辛酸をなめた人も多かったことだろう。この本には書かれていない、いや書けなかったであろうことが多々あるように思われる。

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